豊臣秀頼と真田幸村の最期の地は大坂だったのか?

「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島へ」

上のわらべ歌は、大坂夏の陣の終戦後に流行したものです。

豊臣秀頼は、元和元年(1615年)に大坂城で自害し、真田幸村も戦死したことになっています。

しかし、実は、幸村は大坂夏の陣で戦死せず、秀頼を連れて鹿児島に落ち延びたとも伝えられています。

関ヶ原の戦いに敗れ紀州九度山へ

幸村は、真田昌幸の子として生まれました。

兄に真田信之がいます。

慶長5年(1600年)。

徳川家康率いる東軍と石田三成が毛利輝元を総大将に立てた西軍が、関ヶ原で戦いました。

真田家では、東軍と西軍のいずれに味方するか激しい議論が行われ、最終的に昌幸と幸村が西軍に加わり、信之が東軍に味方することになりました。

昌幸と幸村は、関ヶ原には行かず、上田城に籠城して、徳川秀忠を迎え撃ちます。

真田軍は、最初から徳川秀忠を通せんぼして、関ヶ原の戦いに参戦させないことを目的としていました。

秀忠は、上田城攻略に苦戦し、真田軍の思惑通り関ヶ原の戦いに参戦することができませんでした。

そのせいで秀忠は、戦後、父の家康に大目玉を食らうことになります。

さて、徳川秀忠の関ヶ原参戦を阻止した昌幸と幸村ですが、最終的に西軍が敗れたため、紀州九度山に流罪となってしまいました。

九度山を脱出し大坂城に入城

紀州九度山に配流となって十数年。

この間に父の昌幸は他界。

幸村は、徳川方の監視の中、生活していました。

関ヶ原の敗戦後、長い間、変わることのない生活が続きましたが、慶長19年に重大事件が起こります。

豊臣秀頼が再建した方広寺の釣鐘に刻まれた「国家安康」と「君臣豊楽」の2つの言葉が、家康を呪い、豊臣家の繁栄を願うものだと徳川方が難癖をつけてきたのです。

これにより両者の関係が悪くなり、豊臣方は、徳川と戦うために関ヶ原の戦い後、浪人となった者たちを雇うことにしました。

この時、真田幸村にも豊臣方から声がかかり、密かに九度山を脱出して大坂城に入りました。

また、幸村の他にも豊臣秀頼とその母の淀殿の頼みに応じて大坂城に入場した武将の中には、後藤又兵衛や塙団右衛門(ばんだんえもん)といった大物もいました。

赤備えの真田軍が大坂冬の陣で活躍

いよいよ豊臣と徳川が開戦します。

後にこの戦いは、大坂冬の陣と呼ばれることになります。

大坂城に入った幸村は、開戦前に城の一角に真田丸という砦を造っておきました。

幸村とその軍勢は、真田丸にたてこもり、徳川方の攻撃を見事に防ぎ、大坂城に一歩も近づかせませんでした。

この時、真田軍は兜も鎧も真っ赤だったため、徳川方から「真田の赤備え」と恐れられるようになりました。

しかし、幸村の善戦むなしく、徳川軍の大筒に怯えた淀殿が、家康の和議の提案に応じ、大坂冬の陣は終わりました。

不利な条件で戦った大坂夏の陣

大坂冬の陣の和議の条件として、家康は、大坂城の総堀を埋めるように豊臣方に要求します。

豊臣方は、外堀だけを埋めることにしましたが、最終的に家康に内堀まで埋めるように要求されたため、大坂城は大部分の堀を失うことになりました。

もちろん、これは豊臣家を滅ぼそうという家康の企みです。

堀を埋めた後、両者は再び開戦しました。

これが大坂夏の陣です。

幸村は、堀を失った大坂城に籠城しても勝ち目がないため、秀頼に出陣を促します。

しかし、淀殿や側近の大野治長は、兄の信之が徳川方に味方しているという理由で幸村を信用せず、秀頼出陣の提案を却下しました。

堀がないという不利な条件のため、豊臣軍は苦戦し、後藤又兵衛や塙団右衛門といった武将も次々と討ち死に。

真田幸村も徳川方の伊達政宗軍の騎馬鉄砲隊に悩まされます。

一発逆転を狙った猿飛び佐助の風説の流布

もはや豊臣方の敗色は濃厚。

徳川に勝つためには、家康を討ち取る以外に方法はありません。

しかし、家康の陣は守りが固く、容易に近付くことができません。

そこで、幸村は、家康の陣の守りを崩すために最後の手段を使います。

幸村には、真田十勇士という忍者部隊がいます。

その中の猿飛び佐助に幸村が指示を出しました。

佐助が受けた指示とは、徳川方の浅野軍が裏切ったというデマを流すことです。

佐助は、大声で「浅野が裏切った」と方々に言いふらします。

これを聞いた家康の陣を守っていた兵士たちは、浅野軍が攻めてくると思いこみ、目の前の真田軍に対する守りを解いて、浅野軍の攻撃に備えました。

幸村は、この隙を狙い家康に向かって突撃。

家康を守る兵士たちを蹴散らして突き進みましたが、しかし、あと一歩のところで逃げられてしまいました。

この後、幸村は、安井天神で西尾仁左衛門に討ち取られました。

幸村は、すでに戦う気力を失い、仁左衛門に自分の首を持ち帰り手柄にするようにと言ったそうです。

余談ですが、西尾仁左衛門は、幸村を苦戦の末討ち取ったと家康にウソの報告をしたため、結局、褒美をもらうことができませんでした。

大坂落城後、秀頼は生き延びたのか

真田幸村が戦死した翌日の5月8日。

遂に大坂城は落城しました。

豊臣秀頼、淀殿は燃え盛る大坂城内で自害して果てます。

この場には、幸村の子の大助もいましたが、秀頼とともに自害しました。

「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島へ」

上の歌は、この記事の冒頭で紹介したものです。

豊臣秀頼は、大坂落城後、真田幸村に連れられて、島津家を頼って薩摩に落ち延びたのでしょうか?

豊臣秀頼生存説を裏付けるかのように鹿児島市に彼のお墓があります。

「大坂の陣絵巻」というWEBサイトの下記ページには、秀頼のお墓の写真が掲載されています。

この写真を見ると秀頼は生きていたように思えますね。

また、「真田氏の館 三代録」というWEBサイトの下記ページには、真田幸村生存説の根拠が紹介されています。非常に詳しく解説されているので、ぜひご覧になってください。

秀頼の首発見

豊臣秀頼生存説は、非常に興味深い話ですが、しかし、昭和55年(1980年)にこの説が否定される発見がありました。

なんと、大阪城三の丸跡地の発掘現場から秀頼の首が出土したのです。

その首には、介錯の跡もあったとのこと。

秀頼の首は、彼が再興した京都市右京区の清凉寺に昭和58年に納められました。

現在、清凉寺境内の本堂西側に秀頼の首塚はあります。

豊臣秀頼の首塚

豊臣秀頼の首塚

この首塚の存在によって秀頼生存説は否定されてしまったと考えられますね。

ただ、大阪城三の丸跡地から出土した首が別人のものだとすれば話は別ですが。

なお、清凉寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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