真田家の断絶を防いだ真田信之の菩提寺・大法院

京都市右京区の花園にある禅寺の妙心寺境内には、大法院という塔頭(たっちゅう)が建っています。

初夏の新緑、秋の紅葉が見事な露地庭園があり、毎年その時期に特別公開されます。

大法院は、信州松代藩主の真田信之の菩提寺です。

真田と言えば、大坂の陣で活躍した幸村が有名ですが、信之は幸村の兄にあたります。

もしも、信之がいなければ真田家は断絶し、信州松代藩は明治を迎えることがなかったかもしれません。

徳川の大軍相手に上田城を死守

真田家は、何度も滅亡の危機を迎えます。

しかし、そのたびに信之の活躍により真田家は存続します。

武田家に仕えていた真田家は、武田が滅亡した後、織田信長に従います。

ところが、織田の配下になってすぐに信長は本能寺の変で命を落とします。

信長亡き後、再び、世は乱れ始め、真田家の居城がある上田や沼田も、北の上杉、東の北条、南の徳川が奪い取ろうとします。

真田家は、信之の父昌幸が、幸村を上杉に人質に出して北の脅威を免れます。

しかし、徳川家康は、天正13年(1585年)に大軍を上田城に向かわせ、真田家を屈服させようとします。

弱小真田は、徳川の軍門に降るかに思われましたが、昌幸の計略と信之の武勇により寡兵で徳川の大軍を上田城から退けました。

関ヶ原の戦いで父と弟が敵に

関ヶ原の戦いで、真田昌幸は重大な決断を下さなければなりませんでした。

東軍に味方するか、西軍に味方するか、真田家を存続させるためには勝つ方につかなければなりません。

この時、昌幸は嫡男の信之を東軍に味方するように命じ、自分と次男の幸村が西軍に味方して、どちらが勝っても真田家が存続するように図ったと言われています。

しかし、昌幸は、もっと早い時期に徳川と豊臣との間で戦が起こることを想定していたとも言われています。

その理由は、信之には家康の家臣の本多忠勝の娘を妻に迎え、幸村には豊臣秀吉の家臣の大谷吉継の娘を妻に迎えていたからです。

また、家康も上田城の戦いで真田家に痛手を被った経験があるので、真田家を味方に引き入れるために信之に本多忠勝の娘を嫁がせたとも言われています。

関ヶ原の戦いは、東軍の勝利に終わり、信之は以後も徳川に従うことになりますが、昌幸と幸村は九度山に流されました。

信州松代に移封

関ヶ原の戦い後、領地が沼田だけとなった真田家でしたが、上田も大坂の陣後に戻ってきました。

しかし、この頃から徳川幕府による諸大名の粛清が始まります。

豊臣に近かった福島家などが改易となり、真田家も安穏とはできませんでした。

そして、幕府からついに真田家にも、上田から信州松代への移封の命が下ります。

これまで長年にわたって開拓してきた上田の地を捨てることは、真田家にとって経済的打撃が多かったのですが、幕府の命に従わなければ、真田家が取り潰しになるかもしれません。

そのため、信之は幕府の命に従い、元和8年(1622年)に上田を去り信州松代へと向かいました。

家督争い

信之は、明暦3年(1657年)に家督を次男の信政に譲り、隠居して一当斎と名乗るようになります。

これで、信之もゆっくりと余生を過ごせると思ったでしょうが、真田家にさらなる難題が持ち上がります。

明暦4年に信政が他界したのです。

信政には、右衛門佐(うえもんのすけ)という男子がいましたが、この時、わずかに1歳でした。

そのため、信之の長男ですでに亡くなっていた信吉の子の信利に家督を継がせようとする勢力が現れ、真田家は2つに分かれて争うことになります。

信利は大老の酒井忠清を後ろ盾にしましたが、90歳を過ぎた信之が騒動を鎮めるために活躍したことで、家督は右衛門佐が継ぐことに決定し事なきを得ました。

このように真田家は何度も断絶の危機があったのですが、そのたびに信之の活躍によって危機を乗り越えてきたのです。

信之はその後、万治元年(1658年)に亡くなります。

信之の死から4年後の寛文2年(1662年)に孫娘の長姫(おさひめ)が、彼の遺命により京都に菩提寺を建立します。

それが、大法院です。

大法院

大法院

大法院の墓地には、幕末に吉田松陰や西郷隆盛など多くの志士に影響を与えた佐久間象山の墓があります。

佐久間象山の墓

佐久間象山の墓

大法院に佐久間象山の墓があるのは、彼が信州松代藩士だったからでしょう。

もしも、戦国末期から江戸初期の間に真田家が断絶していたら、幕末に佐久間象山は出てこなかったかもしれません。

真田家の存続のために戦い続けたことが、明治維新に貢献することになるとは、さすがの信之も想像できなかったでしょうね。

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