出雲の阿国はなぜ歌舞伎踊りの興行に北野天満宮を選んだのか

現在の歌舞伎のもととなったのは、出雲(いずも)の阿国(おくに)が始めた歌舞伎踊りとされています。

慶長8年(1603年)3月25日に阿国は、京都市上京区の北野天満宮の境内で初めて歌舞伎踊りをし、京都の人々に強烈な印象を与えました。

ところで、阿国は、なぜ北野天満宮を選んで歌舞伎踊りの興行を行ったのでしょうか。

人が集まる繁華街を狙った

阿国が、北野天満宮を選んだのは、単純に北野が多くの人が訪れる繁華街だったからです。

豊臣秀吉が大茶会を開いたのも北野であったように多くの人の目に触れるためには、北野を選ぶのが当時としては最良の判断だったと言えます。

北野天満宮

北野天満宮

しかし、人が多い場所で興行を行うのは、そう簡単ではなかったはずです。

現代でも、立派なホールを借りてイベントを行うためには、多くの費用がかかります。

場所を貸す側としても、集客力のないアーチストに「はい、どうぞ」と貸すことはないでしょう。

江戸時代の北野も、きっとそうだったはず。

高野澄さんの著書『京都の謎<戦国編>』でも、阿国が、いきなり北野に登場したはずはなく、いろいろと経過があったはずだと述べられています。

歌舞伎踊りの全身となったのは、ややこ踊りです。

ややこ踊りは、10歳前後の女の子が2人で組んで、大人の恋の歌をうたい、不器用な振り付けに合わせて踊るものだったようで、その言葉が資料に現れた最初は天正9年(1581年)とのこと。

歌舞伎踊りを始める20年以上も前だったことから、阿国が、ややこ踊りの創始者ではなかっただろうと推測されます。

このややこ踊りは、複数の座によって、宮廷や北野、公家の屋敷で演じられており、その中でも、阿国の一座が評判だったようです。

しかし、阿国が成長すると、ややことは言えなくなり、やがて、ややこ踊りを演じられなくなりました。

そこで、考案されたのが、歌舞伎踊りだったのではないかとのこと。

ややこ踊りで評判になった阿国の一座なら、北野天満宮で興行しても、大勢の観客を迎えられるに違いない。

そんな思惑があったから、阿国は、北野天満宮で歌舞伎踊りを演じることを許されたのでしょう。

しかも、慶長8年の同時期は、徳川家康が征夷大将軍になった拝賀の式が盛大に行われる予定でした。

この機会を狙わない手はありません。

人が大勢集まる京の都で、歌舞伎踊りを演じれば、一気に阿国の名が全国に広まることまちがいなし。

その思惑は的中し、阿国の一座は歌舞伎踊りで一大ブームを起こしたのでした。

四条大橋のたもとに建つ南座

その後、四条河原に7つの櫓が建ち、四条大橋の辺りが歌舞伎発祥の地とされるようになりました。

阿国が、歌舞伎踊りを演じたのは北野なのになぜ四条大橋近くが歌舞伎発祥の地とされているのでしょうか。

慶長13年に遊女屋を経営していた佐渡島屋が、多数の遊女を躍らせる遊女歌舞伎を四条河原で大規模に行いました。

その遊女歌舞伎を見に数万人が訪れたというのですから、こちらも大ブームだったようです。

四条河原が歌舞伎発祥の地とされるのは、佐渡島屋が興行した遊女歌舞伎との関係が深いからなのでしょう。

しかし、当時は、四条河原よりも清水寺の参詣道であった五条河原の方が賑わっていたのに、なぜ佐渡島屋は四条河原で遊女歌舞伎の興行を行ったのでしょうか。

前掲書では、五条河原は、豊国神社など、豊臣家と関係のある施設が多かったことから、幕府が、五条河原での興行を許さず、代わりに四条河原で興行するよう命じたのだろうと推測しています。

豊臣から徳川に政権が移ったのだから、京都から一刻も早く豊臣家ゆかりの色彩を消したかったのではないかとのこと。

現在も、四条大橋の東に歌舞伎の南座があり、当地が歌舞伎ゆかりの地であることがうかがえます。

南座

南座

また、四条大橋の近くには、出雲の阿国の像が立っています。

阿国が、四条河原で歌舞伎踊りを演じたかどうかは定かではありませんが、歌舞伎発祥の地は、四条河原と言い伝えられています。

もしも、佐渡島屋が遊女歌舞伎を始めなければ、北野天満宮の境内に出雲の阿国の像が立っていたかもしれませんね。

なお、北野天満宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

宿泊