丑年の元日に火除天満宮に初詣・2021年

元日に菅大臣神社に初詣に行った後、東に15分ほど歩いて火除天満宮(ひよけてんまんぐう)に参拝しました。

火除天満宮は、寺町通沿いにあるのですが、ビルの一角に社殿が建っているため気づきにくくなっています。

高島屋の西側と人通りが多いのですが、歩いているほとんどの人が気づかず素通りしていきますね。

清らかな御神水

阪急電車の京都河原町駅から四条通を西に少し歩き、寺町通を南に曲がると、火除天満宮があるビルの前に到着します。

火除天満宮ののぼり

火除天満宮ののぼり

ビルの壁面近くに赤色ののぼりが数本立っていなければ、ここに神社があるとは気づきませんね。

上の写真の奥に建っているのは高島屋の建物です。

入り口には、「火除天満宮社」と刻まれた石柱が立っています。

入り口

入り口

その近くには、ここが大雲院の跡地であったことを示す石碑も置かれています。

龍池山大雲院跡の石碑

龍池山大雲院跡の石碑

鳥居をくぐって細い参道に入ります。

天満宮廿五社第九番の石碑

天満宮廿五社第九番の石碑

参道わきには、天満宮二十五社の第九番であることを示す石柱。

その隣には、御神水が流れていました。

御神水

御神水

手水鉢に流れ出ている御神水は、伏流水を汲み上げたものです。

かつてこの近くには、寺町川という小川が流れていました。

寺町川は、現在の鴨川の北山橋近くで取水され、相国寺京都御所を経て流れていた中川の下流にあたります。

火除天満宮の説明書によると、御神水は、この伏流水かもしれないとのこと。

味はまろやかだそうで、参拝者は自由に汲むことができます。

今回はペットボトルを持っていなかったので、御神水を汲むことはできませんでした。

ビルの奥の本殿

参道を東に進みます。

祠

途中には、小さな祠が建っていました。

天井からは提灯が吊るされており、近代的な建物の一角が神社らしくなっています。

提灯

提灯

参道の途中に受付のような社務所があります。

ここに説明書が置かれていたので、1部いただきました。

説明書によれば、天正7年(1579年)に大宰府から菅原道真の像を背負い兵乱を免れてきた老神官が、六條街にその像を祀ったのが始まりと伝えられています。

その後、本能寺の変(1582年)で、織田信長・信忠父子が亡くなると、天正15年に正親町天皇の勅命により貞安上人が烏丸御池の西北の龍池付近に信長父子の菩提を弔うために大雲院を開創しました。

そして、当社は、その鎮守となります。

参道をまっすぐ進むと、天満宮らしく牛がいます。

牛

天正18年に豊臣秀吉が京都を改造するにあたり、寺町に寺院を移転させます。

大雲院も、寺町四条に移され、それに伴い当社も移転しました。

しかし、天明の大火(1788年)で大雲院は焼失し、当社も類焼したと考えられています。

全然、火除けじゃないと思われるでしょうが、当社が火除天満宮と呼ばれるようになったのは、その後です。

元治元年(1864年)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で、京都の多くの建物が焼失しました。

ところが、大雲院から南の数軒の民家は類焼を免れました。

説明書では、大雲院を本陣としていた佐土原藩の藩士たちの防火活動によるものだろうと述べられています。

いずれにしろ、様々な偶然が重なり、焼失を免れたことが、火除の名を高めたか、火除と呼ばれるようになったのではないかと考えられています。

参道を奥まで進むと、石造りの鳥居が立っています。

鳥居

鳥居

建立は、天保6年(1835年)なので、蛤御門の変の前から立っていたことになります。

明治以降も、近隣で3回の火災が発生していますが、そのたびに火除天満宮は類焼を免れています。

これだけの火災が発生しても焼失せずに存続しているのですから、火除のご利益が大いにありそうですね。

それでは、本殿にお参りをして、火除、厄除、頭が良くなるよう祈願しましょう。

本殿

本殿

元日の火除天満宮は、無人でした。

寺町通のお店も、今年の元日は営業していないところが多く寂しかったです。

この後は、錦天満宮に参拝します。

なお、火除天満宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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