鳥羽伏見の戦いの史跡

慶応4年(1868年)1月3日。

京都市伏見区で、新政府軍と旧幕府軍が激突しました。

この戦いは、鳥羽伏見の戦いと呼ばれ、明治2年(1869年)の函館戦争まで続く戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりとなります。

現在でも、伏見区には、鳥羽伏見の戦いの史跡がいくつも残っています。

始まりは小枝橋

まず、最初は、京都南インターの西にある鳥羽離宮跡公園の史跡から。

鳥羽離宮跡公園

鳥羽離宮跡公園

ここには、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋」と刻まれた碑と「鳥羽・伏見方面戦闘図」が置かれています。

鳥羽・伏見方面戦闘図

鳥羽・伏見方面戦闘図

慶応3年12月に幕府政治から旧来の天皇中心の政治体制に戻すという王政復古の大号令がなされ、その日の夜の小御所会議で、15代将軍徳川慶喜の官位と領地の返上が決定されました。

その2ヶ月前に慶喜は、政権を朝廷に返上する大政奉還を行っているのに、さらに官位と領地を没収されるわけですから、彼だけでなく家臣たちも納得がいきません。

また、小御所会議の後、江戸では、薩摩藩士が、商家を襲い金品を奪い取って薩摩藩邸に逃げ込むということを繰り返していました。

そこで、江戸の取り締まりをしていた庄内藩が、薩摩藩に盗賊を引き渡すように迫ります。

しかし、薩摩藩は、のらりくらりとした返答しかしません。

このような薩摩藩の態度に堪忍袋の緒が切れた庄内藩が、ついに薩摩藩邸を襲撃します。

実は、薩摩藩はこれを待っていたのです。

先に幕府がケンカを仕掛けてくれば、武力でこれを倒すという口実ができます。それを狙って薩摩藩は、江戸で盗みを繰り返していたのです。

京都から大坂城に移っていた徳川慶喜にも、この知らせが届きます。

知らせを聞いた慶喜は、当然、薩摩藩を許すことはできません。

ちょうどその頃、朝廷から慶喜に対して、軽装で上洛するようにという命令もあったことから、慶喜は旧幕府軍を京都に向かわせることにしました。

旧幕府軍は、淀川を上り、現在の京阪電車の中書島駅近くにある京橋に上陸。

そこから、西の鳥羽街道と東の伏見街道から京都に進み始めました。

鳥羽街道を進む旧幕府軍の主力が、小枝橋付近に到着すると、京都への侵入を防ぐために薩摩藩兵が陣をしいていました。

ここで、旧幕府軍の滝川具挙(たきがわともたか)と薩摩藩の椎原小弥太(すはらこやた)が、長時間にわたって押し問答を繰り広げます。

滝川は朝廷からの命令で京都に行くのだから通すように要求します。

しかし、椎原は、軽装での上洛じゃないと通せないと言い張ります。

昼過ぎから続いた押し問答は、夕方に椎原がしびれを切らし、とうとう大砲を発射しました。

これが鳥羽伏見の戦いの始まりです。

ちなみに鳥羽離宮跡公園の石碑には、「薩摩藩がアームストロング砲を発射」と書かれています。

アームストロング砲は、射程が2kmもある、当時では最強の大砲で、落下すると破裂する砲弾を使用していました。

鳥羽伏見の戦いでアームストロング砲が、実際に使用されたのかどうかはわかりませんが、その後の戊辰戦争では、上野の戦いや会津戦争で使われています。

小枝橋

小枝橋

小枝橋から、100メートルほど離れた場所には、鳥羽伏見戦跡の石柱があり、その近くには「鳥羽伏見の戦い 勃発の地」の説明書が立っています。

鳥羽伏見戦跡

鳥羽伏見戦跡

そして、小枝橋から鳥羽離宮跡公園を通り過ぎて東に進んだ場所に建つ城南宮の境内にも「鳥羽伏見の戦跡」の説明書が置かれています。

城南宮

城南宮

会津藩と新撰組が薩摩藩と戦った御香宮神社付近

この記事の上の方に掲載している「鳥羽・伏見方面戦闘図」を見ていただくと、右の方に「御香宮神社」と赤字で書かれている部分があります。ちなみにこの赤字は、私が書き込んだものです。

御香宮神社には薩摩藩が陣取り、その南の伏見奉行所には旧幕府軍を形成する会津藩と新撰組が陣取りました。

御香宮神社

御香宮神社

小枝橋付近での大砲の音は、御香宮神社まで届き、ここでも戦いが始まりました。

薩摩藩は、新式の大砲や銃を会津藩と新撰組に雨のように発射します。

火力に劣る会津藩と新撰組は、防戦一方で手も足も出ません。

昼間は大砲や銃に勝てないと判断した新撰組は、夜になるのを待って、刀での斬り込みを開始。

戦いの前に狙撃されて負傷した局長の近藤勇(こんどういさみ)と結核で倒れた剣豪の沖田総司はいないものの、新選組の斬り込みは凄まじく、薩摩藩兵を次々になぎ倒していきます。

しかし、薩摩藩もこれにひるまず、人斬り半次郎と恐れられた中村半次郎を中心に応戦します。

ちなみに中村半次郎は、後に陸軍少将となり、桐野利明と改名しています。

現在、御香宮神社の境内には、「明治維新 伏見の戦跡」の石碑が置かれています。

明治維新 伏見の戦跡

明治維新 伏見の戦跡

御香宮神社付近での戦闘は、相当激しかったようで、この辺りの民家のほとんどが焼失しています。

この近くにある江戸時代から続く魚三楼(うおさぶろう)という料亭にも、鳥羽伏見の戦いの時の弾痕が残っています。

錦の御旗の出現で旧幕府軍は総崩れ

鳥羽伏見の開戦から1日経った1月4日。

薩摩藩、長州藩、土佐藩などで構成された新政府軍は戦場に錦(にしき)の御旗を掲げます。

錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で旧幕府軍は天皇に逆らう軍隊ということになりました。

これを見た旧幕府軍は、次々に撤退。

御香宮神社付近で、戦っていた会津藩と新撰組も撤退し、淀から八幡市を抜けて大坂城まで退却しました。

ちなみにこの時に掲げられた錦の御旗は、薩摩藩や公卿の岩倉具視(いわくらともみ)達が勝手に作ったものといわれています

下の写真に写っているのは、鳥羽伏見の戦いの激戦地となった京橋です。

京橋

京橋

京橋には、「伏見口の戦い激戦地跡」の碑があります。

伏見口の戦い激戦地跡

伏見口の戦い激戦地跡

この説明書によると、会津藩と新撰組は、京橋付近の民家に火を放って退却したため、大きな被害を受けたそうです。

鳥羽伏見の敗戦後、旧幕府軍は、次々と大坂城に落ちのびてきましたが、この時には、すでに徳川慶喜は、軍艦に乗って江戸に戻っており、兵たちは主君に見捨てられた形となりました。

関連記事