近藤勇を狙撃せよ

京都の街を歩いていると今まで何もなかった場所にいつのまにか石碑が置かれているということがよくあります。

伏見区の京阪墨染駅から西に10分ほど緩やかな坂を下って行ったあたりにも、平成21年(2009年)12月に建立されたばかりの石碑があります。

その石碑には、「この付近 近藤勇 遭難の地」と刻まれています。

新撰組局長近藤勇

近藤勇(こんどういさみ)は、幕末の京都の治安を守るために文久3年(1863年)に結成された新撰組のトップです。

ちなみに新撰組では、トップのことを局長といいます。

新撰組は、池田屋事件など京都の治安維持のために活躍したことで知られていますが、内部抗争がよく発生したことでも有名です。

結成当初は、近藤と同じ局長の芹沢鴨(せりざわかも)を暗殺。

その数年後の慶応3年(1867年)11月18日には、御陵衛士(ごりょうえじ)を結成するために新撰組から分離した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)を暗殺しています。

近藤勇は、伊東甲子太郎を暗殺したことから、その1ヶ月後の12月18日に命を狙われることになったのです。

墨染で待ち伏せ

この日、近藤勇は用事があって二条城を訪れていました。

10月に15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返上する大政奉還を行って以来、京都の町は、幕府と薩摩・長州との間でいつ戦争が始まるかと騒然としていました。

近藤が二条城に訪れたのも戦争に備えた軍議のためです。

この頃になると新撰組は、戦争に備えて、下京区の不動堂村の屯所から伏見奉行所へと移動していました。

用事を済ませた近藤は、20名ほどの隊士を連れて二条城から伏見奉行所へと帰っていきます。

この時、近藤の命を狙う者がいました。

それは、御陵衛士の残党の篠原泰之進(しのはらたいのしん)、富山弥兵衛、加納道之助、阿部十郎、佐原太郎、内海次郎です。

阿部、佐原、内海は、二条城と伏見奉行所の間にある七条醒ヶ井(さめがい)の近藤の妾のお孝宅の襲撃を企てます。

近藤が伏見に戻る途中にここで休憩すると考えたからです。

しかし、3人がお孝宅を襲撃した時には、近藤はいませんでした。

その後、3人は襲撃に備えて武器屋に立ち寄ります。

すると、店の中で籠手などを物色していた3人の前をなんと近藤一行が通り過ぎて行ったのです。

幸いにも3人は、近藤に見つからずその場をやり過ごすことができました。

3人は、急いで御陵衛士の残党が居候している伏見の薩摩藩邸へと走って戻り、篠原、富山、加納に近藤が伏見奉行所に戻る途中だということを報告し、待ち伏せして襲撃しようと提案します。

そして、御陵衛士の残党6人は、伏見奉行所に戻る途中の墨染付近で近藤を待ち伏せることにしたのです。

空家の2階から狙撃

彼らは薩摩藩から2丁の銃を借りて、富山と阿部が空家の2階で銃を構えて待機しました。

息をひそめてしばらく待つと馬上の近藤勇とその一行が、彼らの潜んでいる付近へと通りかかりました。

空家の2階で待機していた2人は、近藤が射程圏内に入ったところで銃を発砲。

その弾丸は、近藤の右肩に命中しました。

それを見た残党4人が刀を抜いて近藤一行を襲撃。

しかし、近藤は右肩を撃たれたにもかかわらず落馬せず、馬を走らせて御香宮神社近くの伏見奉行所へと逃げ帰りました。

この後、近藤勇は、隊士の沖田総司とともに伏見から大坂城へと移動し、医師の松本良順の治療を受けています。

伏見街道か竹田街道か

先にも述べましたが、近藤勇遭難の地の石碑は、京阪電車の墨染駅から西に10分ほど歩いた清和荘の門の前に置かれています。

清和荘

清和荘

建立されたばかりなので、石碑はピカピカです。

近藤勇遭難の地

近藤勇遭難の地

さて、この記事では、近藤勇が狙撃されたのは、墨染と紹介しました。

清和荘の前の通りは墨染通と呼ばれ、東西を結んでいます。

清和荘から墨染通を西に200メートルほど進むと竹田街道と交わります。

また、東に500メートルほど行くと墨染駅があり、その少し先に本町通が南北を結んでいます。本町通は、当時、伏見街道と呼ばれていました。

私が調べたところでは、多くの文献で近藤勇は伏見街道と墨染通が交わる辺りで狙撃されたとなっています。石碑にもそのように書かれていますし、月桂冠大倉記念館のWEBサイトの下記ページにもそのように紹介されています。

また、近藤勇が狙撃されたのは竹田街道という説もあります。

広瀬仁紀(ひろせにき)の新選組風雲録の中では、竹田街道説が採用されていますね。この作品の中では、狙撃された後の近藤は以下の経路で伏見奉行所に逃げ帰ったと描かれています。

そのまま竹田街道と大手筋通が交差する辻を駆け抜け、一筋南の油掛通で左に折れて道なりに走ると、伏見奉行所の表門が見とおせた。

近藤勇遭難の地の石碑が置かれている清和荘は、本町通よりも竹田街道の方が近いので、こちらの説の可能性もありますね。

私が二条城から伏見奉行所に行くなら、二条城の前の堀川通を南下して、途中で竹田街道に入ります。

本町通を通るよりも曲がる回数が少ないですからね。

関連記事