山本覚馬の邸宅は吉田稔麿が討死した場所近くにあった

京都市中京区の河原町御池の交差点を歩いていたら、南西角のZest御池の入り口近くに石碑が立っているのに気づきました。

以前は、こんなところに石碑はなかったのですが、知らない間に建立されたんですね。

河原町御池の南西角に立つ石碑には、「北隣地 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡」と刻まれています。

明治時代の京都を支えた山本覚馬

下の写真に写っているのが、その石碑が立っている河原町御池の南西角です。

河原町御池の南西角

河原町御池の南西角

説明書も設置されているので、石碑がどういったものなのかがわかるようになっています。

御池通を挟んで、この石碑の北側には、京都市役所があります。

その付近が、どうやら明治時代の山本覚馬(やまもとかくま)の邸宅があった場所のようです。

山本覚馬は、歴史的にはあまり有名な人物ではありません。

でも、明治になり首都が東京に遷って以降、廃れていった京都に活気を取り戻した功績があるので、京都に住んでいる人にとっては恩人であります。

山本覚馬は、京都府顧問として後に2代目京都府知事となる京都府権大参事(きょうとふごんのだいさんじ)の槇村正直(まきむらまさなお)を支えました。

山本覚馬が京都府顧問を勤めていた時には、小中学校の創設や日本で最初の内国勧業博覧会が開催されるなどがあり、彼もそれらに尽力しています。

石碑に刻まれている「八重」とは、山本覚馬の妹のことです。

彼女は、同志社大学の創立者の新島襄の妻となる女性です。

吉田稔麿殉節の地

同じ石碑には、「此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」とも刻まれています。

此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地

此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地

吉田稔麿(よしだとしまろ)は、長州藩士で松下村塾の出です。

頭が良く、将来を嘱望された若者だったのですが、元治元年(1864)年6月5日に起こった池田屋事件で討ち死にしています。

池田屋事件には、山本覚馬も関わっています。

山本覚馬は、幕末は会津藩士で、池田屋事件の時、新撰組の要請を受けて長州系浪士たちを捕えるために出動しています。

もしも、吉田稔麿が池田屋事件で命を落とさなければ、明治政府で活躍していたかもしれません。

彼は、新撰組の沖田総司に斬られたとも言われていますし、会津藩士たちと戦って討死したとも言われています。

いずれにしても、吉田稔麿の死に山本覚馬が、どの程度だったかはわかりませんが、関わっていたことに違いはありません。

幕末に守旧勢力の側にいた山本覚馬が、明治時代に京都の近代化を進めたのですから、歴史とは何とも不思議です。

山本覚馬は、池田屋事件の報復に上洛した長州藩兵が引き起こした蛤御門(はまぐりごもん)の変での負傷がもとで、後に失明することとなります。

不運な事故と言えば、それまでですが、山本覚馬の人生には、常に長州藩が深く関わっていました。

彼を登用した槇村正直も長州藩出身ですからね。

河原町御池の南西角にある石碑の「山本覚馬・八重邸宅跡」と「吉田稔麿殉節之地」の文字を見ていると、良い意味でも悪い意味でも、長州藩なしでは山本覚馬の活躍はあり得なかったんだなと、妙に感慨深くなるのでした。

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