京都で天神様と言えば、学問の神様である菅原道真のことを指します。
そして、菅原道真が祀られているのが北野天満宮ということもあって、受験の時期になると多くの受験生が合格祈願に訪れます。
でも、菅原道真を最初に祀ったのが、北野天満宮ではなく文子天満宮(あやこてんまんぐう)であるということは、あまり知られていません。
菅原道真の怨念
平安時代の秀才として知られる菅原道真は、その才能を評価され出世していきますが、これをおもしろく思わなかったのが、当時、権力を握っていた藤原家でした。
そこで、邪魔者の道真を何とかしようと藤原時平が、「道真が醍醐天皇を廃位しようとしている」という中傷をします。この中傷により、道真は大宰府に島流しに遭いました。
そして、道真は、延喜3年(903年)に、失意の中、大宰府で亡くなります。
その後、都では天変地異が起こります。
延喜9年には、道真を排除した藤原時平が39歳の若さで亡くなります。あまりに早すぎる死に、人々は道真の怨念の仕業ではないかと噂しました。
不幸は、藤原家だけでなく皇室でも起こり、藤原家と縁のある2人の皇太子が相次いで亡くなくなりました。
そこで、道真の怨念を鎮めるために、道真を生前の役職であった右大臣に戻します。
しかし、都での天変地異は続き、遂には、延長8年に清涼殿に落雷が直撃し、貴族たちが命を落とします。
道真の怒りは、右大臣に戻しただけではおさまらなかったのです。
多治比文子が受けた託宣
都で天変地異が続く中、天慶5年(942年)に右京七条二坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)が道真の託宣を受けます。
その内容は、「我を北野の右近の馬場に祀れ」というもの。
しかし、文子には、財力がなかったので、仕方なく自宅に小さな祠を作り、道真を祀りました。
これが、現在、下京区の東本願寺の東に建つ文子天満宮で、天神信仰のはじまりとされています。
文子は、道真の乳母と伝えられており、道真が大宰府に赴く際に自ら彫った像を文子に手渡したとされます。
しかし、道真が60歳近くまで生きていたこと、道真の死後30年以上経ってから文子が祠を造ったことから、年齢的に文子が道真の乳母とは考えにくい部分があります。この点については、以下のブログで詳しく書かれています。
なお、文子が住んでいた右京七条二坊は、今の文子天満宮よりも西の方になります。
北野天満宮の創建
その後、天暦元年(947年)に神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸にも文子と同様の託宣がありました。
そこで、良種と文子が協力して社殿を建て、その後も藤原家の援助で神殿が造営され、北野天満宮が創建されました。
なお、菅原道真は、以前に天変地異は怨霊の仕業・上御霊神社の記事で紹介しました上御霊神社でも祭神として祀られています。
文子天満宮舊址
先ほども書きましたが、文子天満宮は下京区の東本願寺の東に建っています。
しかし、どうも文子天満宮は過去に何度か移転していたようです。
北野天満宮から南に10分程度歩いた場所に「文子天満宮舊址」と書かれた石柱が建っていました。
どうやら、ここは文子天満宮の跡地のようです。しかし、調べてみたのですが、文子天満宮がどのように移転したのかは、はっきりしません。この辺については、分かり次第このブログで紹介したいと思います。
なお、文子天満宮と北野天満宮の由緒などは以下のページを参考にしてみてください。