平安時代一覧

平安京の大内裏は南北中心線と東西の線を結んだ中心点に建っていた

平安京は、四神相応の地に造営された都です。 四神相応の地というのは、北に玄武、東に青竜、南に朱雀、西に白虎という四方を守る神がいる地形のことです。 これを平安京に当てはめると、北は船岡山、東は鴨川、南は巨椋池(おぐらいけ)、西は山陰道に囲まれており、まさに四神相応の地だったわけです。 そして、平安京の中心をなす大内裏(だいだいり)の位置は、風水の思想によって決定されたといわれています。

新風館が建つ場所は平治の乱の悲劇の舞台だった・三条東殿跡

京都市中京区の三条烏丸に新風館というショッピングモールがあります。 新風館はなかなかおしゃれな空間で、若い人たちに人気があり、ラジオの公開放送なんかも行われたりします。 この新風館の建つ辺りは、平安時代には、三条東殿という白河法皇の院の御所があった場所です。

仏師の祖・定朝ゆかりの七条仏所跡には何もない

京都駅からほど近い七条高倉の交差点。 今は、車の通りが多く、民家やお店がたくさん並んでいます。 ここは、その昔、仏師たちが彫刻に励んだ七条仏所があった場所とされています。 現在は、その面影がなく、誰かに聞かないとわからないような感じなのですが、交差点の民家にそれを示す京都市の説明書が立っていたのを偶然に見つけたので、ここが七条仏所の跡地だということがわかりました。

九重塔が建っていた白河院址

京都市左京区の平安神宮の東、京都市動物園の北に大きなお屋敷があります。 このお屋敷は、白河院といい、現在は宿泊施設となっています。 ここは、平安時代、藤原良房の別荘白河院があった場所。 それを示す石碑が宿の門前に立っています。

常盤御前が雪をしのいだ松の残株がある寶樹寺

平治元年(1159年)12月に起こった平治の乱は、平清盛が源義朝に勝利したことで終わりました。 しかし、負けた側の源義朝の家族にとっては、ここからが本当の戦い。 平清盛に捕えられると、当然ながら命の保証はないわけですから、とにかくどこかに逃げなければなりません。 義朝の妻であった常盤御前も、今若、乙若、牛若の3人の子供を連れて都から逃げることになりました。

藤原氏の栄華の跡・東三条院址

京都市中京区の押小路通と釜座通が交差するあたりに東三条院址(とうさんじょういんし)の石碑を発見しました。 腰よりも低い石碑なので、普通なら見向きもせずに通り過ぎてしまうのですが、近くに京都市の説明書が立っていたので、近寄ってじっくりと観察することにしました。 ここはどうやら平安時代に貴族の屋敷があった場所のようです。

平安時代の美男子として有名な在原業平の邸宅跡

いつの時代でもかっこいい男性は、女性の憧れですよね。 さらに歌がうまいと、好感度がアップします。 しかも、家柄が良かったりすると、なんかもう別次元に住む遠い存在のように感じ、近くに寄るのもためらわれてしまいますね。 現代にもこういった有名人の方がいらっしゃいますが、歴史上にも、容姿端麗、歌がうまい、家柄が良いといった男性が何人もいました。 平安時代前期でいうと、在原業平(ありわらのなりひら)がそうですね。

水難から救われた藤原山蔭が建てた新長谷寺

京都市左京区の真如堂境内に新長谷寺(しんはせでら)という小さなお寺が建っています。 新長谷寺は、洛陽三十三所観音霊場の第五番札所です。 創建は平安時代前期で、藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が建立しました。 山蔭が新長谷寺を建立したのは、ある出来事が理由と伝えられています。

安倍晴明の墓と蘇生伝説

平安時代中期の陰陽師(おんみょうじ)と言えば、安倍晴明。 夢枕獏の小説「陰陽師」の中で、安倍晴明は、都に跋扈(ばっこ)する魔物たちを呪法によって退治するモンスターハンターのように描かれています。 そんな安倍晴明も人間なので、やがて寿命が訪れます。 彼は、寛弘2年(1005年)9月26日に85歳でこの世を去ったと伝えられています。