祇王と仏御前が隠棲した往生院・祇王寺
平安時代末期、祇王という白拍子がいました。 白拍子とは、当時の男性の恰好をして、歌を歌ったり、舞を披露する女性のことです。 祇王は、白拍子の中でも歌や舞がとても上手だったので、当時の都では、その名が知られていました。
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平安時代末期、祇王という白拍子がいました。 白拍子とは、当時の男性の恰好をして、歌を歌ったり、舞を披露する女性のことです。 祇王は、白拍子の中でも歌や舞がとても上手だったので、当時の都では、その名が知られていました。
平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。 清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。 また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。 この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。
治承元年(1177年)6月1日。 平家を倒そうと謀反を企てた者たちが捕えられる事件が起こりました。 世に言う鹿ヶ谷(ししがたに)の変です。
平安時代末期、平家でない者は人でないと言われていた時代。 時の権力者は、平清盛でした。 清盛は、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、後に安徳天皇を生みます。 しかし、この頃、高倉天皇は一人の女性を寵愛していました。 その女性は、小督局(こごうのつぼね)。
保元元年(1156年)に後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱は、後白河天皇の勝利に終わりました。 そして、負けた崇徳上皇は、仁和寺で謹慎した後、讃岐国(香川県)に配流となります。
平治元年(1159年)に起こった平治の乱で、平清盛が源義朝に勝ち、以後20年以上に渡る平家全盛期が訪れました。 しかし、清盛が亡くなって、すぐに平家は衰退し、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏に滅ぼされることになります。 その時、平家を滅ぼした源氏の武将が、源義経でした。
毎年、春と秋に特別公開される京都御所は、雅な観光名所として人気があります。 しかし、京都御所は、今の雅なイメージからは想像できませんが、平安時代末期には、平治の乱の戦場となったことで知られています。
源平の争乱の始まりとなったことで有名なのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱。 保元の乱の時は、まだ源氏と平家が戦うというよりも朝廷を中心とした争いに源氏と平家が参加したという形でした。 乱の原因は、後白河天皇と崇徳上皇との権力争いだったのですが、その争いに源氏も平家も身内同士で戦うことになります。 特に源氏は、父の源為義と長男の義朝が敵味方となって戦い、義朝の弟たちは父・為義につきました。 その弟達の中には、弓の名手として知られる源為朝も混ざっていたのです。
京都市東山区の六道珍皇寺の近くに六波羅蜜寺が建っています。 六波羅蜜寺は、天暦5年(951年)に空也上人が開創したお寺で、無病息災、勝負運、金運のご利益があると言われています。
平安時代末期の源平の争乱は、壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が滅亡したことによって終わりを告げます。 それにより、源頼朝が鎌倉幕府を開くことになったわけですね。 源平の争乱は、簡単に言うと源氏と平家といった2つの武家の争いなのですが、そのきっかけを作ったのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱でした。