平安時代一覧

平家全盛期にだけ並存した2つの三十三間堂

京都市東山区には、三十三間堂というお寺があります。 この三十三間堂、実は平安時代に2つあったことをご存知でしょうか。 ひとつは、今現在も存在している正式には蓮華王院(れんげおういん)という三十三間堂です。 もうひとつは、得長寿院と呼ばれていた三十三間堂です。 今回の記事では、蓮華王院と得長寿院を比較しながら紹介したいと思います。

下京区の源氏ゆかりの地を歩く

京都にはたくさんの史跡があります。 街を歩いていると、史跡の案内板や石碑が置かれているのに気付く方も多いのではないでしょうか。 私もある日、京都駅や四条烏丸などがある下京区を歩いていると「源氏ゆかりの地」と書かれた案内板を発見しました。

平重衡の運命を変えた南都焼討・安福寺

治承4年(1180年)5月。 以仁王(もちひとおう)が源頼政とともに平家追討のために挙兵します。 以仁王側には園城寺(おんじょうじ)などの僧も加わりましたが、最終的に平家によって鎮圧されました。 この挙兵に僧が加わったことが、後に平家による南都焼討へとつながり、その時の総大将であった平重衡(たいらのしげひら)の運命を変えることになります。

2つの若宮八幡宮

京都市には、下京区と東山区に若宮八幡宮が建っています。 もちろん、同じ名前なので両者は関係があります。 結論から言うと若宮八幡宮は、最初に下京区に建てられた後、東山区に移転しました。

応天門の変で衰退した住吉大伴神社

きぬかけの道を龍安寺から仁和寺に向かうちょうど中間地点に住吉大伴神社という神社が建っています。 あまり大きな神社ではないため、多くの観光客の方は、この神社を素通りしていきます。 しかし、住吉大伴神社の創建は古く、ある事件が起こらなければ、京都を代表するような神社になっていたかもしれないのです。

二度の嘘が功を奏した宇治川先陣争い

平家が都を落ちた後、入京した木曽義仲は、法住寺殿を焼き打ちし、後白河法皇を五条に幽閉しました。 これによって義仲が時の権力者になったかに思えましたが、西の平家、裏切り者の叔父の源行家など、義仲にとって邪魔な存在は消えてはいませんでした。 それどころか、鎌倉の源頼朝が、弟の範頼と義経を木曽義仲討伐のために京都に向かわせていたのです。

木曽義仲の法住寺殿焼き打ち

寿永2年(1183年)7月に平家が都を落ち、代わりに入京したのが木曽義仲とその叔父の源行家でした。 この時、一番喜んだのはおそらく後白河法皇だったのではないでしょうか。 なぜなら、平家は都を落ちて西国に向かうことを決定した際、後白河法皇を都から連れ出そうとしていたからです。 その計画を知った法皇は、平家の探索から逃れるためにどこかへと姿をくらまし、息を殺して危険が過ぎ去るのを待っていました。 平家が都を去り難を逃れた法皇でしたが、実はこの後、更なる問題に直面することとなります。