後白河法皇ゆかりの長講堂特別公開
京都市下京区の五条通と七条通の間に長講堂というお寺が建っています。 長講堂は、普段は門が閉まっていて拝観できないのですが、2012年の「京の冬の旅 非公開文化財特別公開」で、初めて寺宝が公開されることになりました。 この機会を逃しては、次、いつ拝観できるかわからないので、公開が始まった数日後に長講堂を訪れました。
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京都市下京区の五条通と七条通の間に長講堂というお寺が建っています。 長講堂は、普段は門が閉まっていて拝観できないのですが、2012年の「京の冬の旅 非公開文化財特別公開」で、初めて寺宝が公開されることになりました。 この機会を逃しては、次、いつ拝観できるかわからないので、公開が始まった数日後に長講堂を訪れました。
京都市には海がないのに海水を焼いて塩を取る塩焼きが行われた場所が2つあります。 ひとつは西京区の十輪寺で、もうひとつは下京区の本覚寺です。 塩焼きが行われたのは、平安時代前期です。 十輪寺では在原業平(ありわらのなりひら)が、本覚寺では源融(みなもとのとおる)が塩焼きをしました。
京都には、源氏と平家の史跡が数多くあります。 当ブログでも過去記事でこれらの史跡を紹介してきましたが、記事を投稿した時期がバラバラのため、探し出して読むのが非常に困難な状況となっていました。 なので、過去に紹介した源平の史跡を時系列にしたがってまとめました。 なお、当記事内のリンクは、便宜上クリックすると新しくウィンドウが起動するようにしています。タブで開く場合は、Ctrlキーを押した状態で左クリックしてください。
寿永4年(1185年/元暦2年)3月の壇ノ浦の戦い後に長楽寺で出家した建礼門院徳子は、しばらくして吉田山の庵に移ります。 しかし、吉田山は都から近く、高倉天皇の中宮であり、安徳天皇の母であった彼女の哀れな姿を見ようと野次馬が覗き見しにくることもありました。 そこで、彼女は、同年9月に都から離れた山奥の大原に隠棲することにしました。
京都市右京区の嵯峨野に滝口寺というお寺が建っています。 もともとは往生院三宝院という名だったのですが、明治維新で廃寺となった後、昭和に入って再興されて現在の寺名となりました。 滝口寺という名は、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の小説「滝口入道」が由来となっています。
治承元年(1177年)に当寺権勢をふるっていた平家を倒そうという計画がありました。 世に言う鹿ケ谷の変です。 この計画は、事前に平清盛に察知され、関係者は捕えられ、処刑されたり、島流しにされたりしました。 鹿ケ谷の変に関わり島流しとなった者の中には、平康頼という人物もいました。
京都には、菅原道真を祀っている神社がいくつかあります。 京都市上京区の京都御苑の西に建つ菅原院天満宮神社もそのひとつです。 この神社には、菅原道真が誕生した時に初湯に使った井戸があります。 以前は、枯れていたのですが、2011年に工事をして地下水が出るようになったということなので、観に行ってきました。
京都市の上京区と北区の境目辺りに櫟谷七野神社(いちいだにしちのじんじゃ/いちいだにななのじんじゃ)という神社が建っています。 櫟谷七野神社は、文徳天皇の染殿皇后が安産祈願のために春日権現を勧請(かんじょう)したのが始まりと伝えられています。 あまり聞いたことがない神社と思いますが、実は賀茂斎院跡という歴史的に興味深い場所に建っています。
平安時代に坂上田村麻呂という人物がいました。 日本史の教科書に必ず登場するので、名前くらいは知っていることでしょう。 田村麻呂は、日本で初めて征夷大将軍になった武将で、彼の墓は京都市山科区にあります。
治承5年(1181年)閏2月4日。 この日、貴族中心の政治から武家政治への転換の基礎を作った平清盛が亡くなりました。 京都市東山区の六波羅蜜寺には、その平清盛の塚があります。