平重衡の運命を変えた南都焼討・安福寺

治承4年(1180年)5月。

以仁王(もちひとおう)が源頼政とともに平家追討のために挙兵します。

以仁王側には園城寺(おんじょうじ)などの僧も加わりましたが、最終的に平家によって鎮圧されました。

この挙兵に僧が加わったことが、後に平家による南都焼討へとつながり、その時の総大将であった平重衡(たいらのしげひら)の運命を変えることになります。

各寺の僧達が平家に反発

以仁王の挙兵に加わった僧たちは、平清盛によって追放されました。

さらに清盛は、園城寺の荘園を没収したり、奈良の興福寺の僧の私有地を取り上げるなどの処分を行います。

処分された僧は、経済的基盤を失ったため、平家に対して恨みを抱きました。

さらに清盛が都を京都から福原へと遷したことで、寺院に参詣する公家が減り、興福寺や東大寺は経済的打撃を受けます。

こういったことにより、僧たちの平家に対する不満が爆発し、遂に興福寺や東大寺の僧たちが暴れ出しました。

清盛は、僧たちの不満を静めるため、また、彼らの不満が何なのかを聞くために関白藤原基房の書状を持った使者を南都に送ります。

しかし、南都の僧たちは書状も見ずに使者を追い払ってしまいました。

そこで、清盛は妹尾兼康(せのおのかねやす)に500人の兵を持たせ、関白の書状を興福寺に届けさせようとしました。

しかし、この平家の軍勢に対して、僧たちが攻撃を開始。

60人ほどが捕えられ、僧たちによって首を斬られました。

この事態を妹尾兼康が報告すると、遂に清盛の堪忍袋の緒が切れました。

清盛は、子の重衡を総大将とし、甥の通盛(みちもり)とともに軍勢を率いさせ、南都へと向かわせます。

さすがの僧兵たちも、重衡の軍勢には敵わず、散々に蹴散らされました。

そして、その日、治承4年12月28日の夜、事件が起きます。

重衡の軍勢が、民家に放った火が、突如吹いてきた強風に煽られて、興福寺と東大寺へと燃え移りました。

この火災により、多くの伽藍が焼失。戦いとは無関係のたくさんの人々が犠牲になりました。

知らせを受けた清盛も、さすがにやり過ぎたと思ったそうです。

この事件の数カ月後、清盛は謎の高熱にうなされながら、この世を去りました。

鎌倉に護送された平重衡

南都焼討から約3年後の寿永3年(1184年)2月。

平家は、一ノ谷の戦いで源氏に敗れ、屋島へと退却しました。

この時の戦いで、南都焼討に参加した平通盛は戦死。

平重衡も源氏に捕えられました。

その後、重衡は、鎌倉へと護送されます。

護送された重衡は、すぐには処刑されませんでした。

それどころか、源頼朝は、白拍子の千手を彼に仕えさせるなど、丁重にもてなしました。

その理由は、重衡を源氏に寝返らすためです。

もしも、重衡が源氏につけば、諸国の武者が源氏になびくし、朝廷との交渉にも利用できます。

何より、平家が都から持ち出した三種の神器と重衡の身柄を交換するといった交渉も可能になります。

しかし、重衡が源氏になびく気配は全くありません。

結局、重衡が捕えられてから約1年後の元暦2年(1185年)3月に平家は壇ノ浦で滅亡します。

その後、興福寺が、鎌倉に重衡の身柄を引き渡すように求めてきました。

重衡は、南都焼討の総大将だったので、興福寺としては彼を許すことができません。

頼朝は、興福寺の求めに応じ、重衡を引き渡しました。

そして、元暦2年6月23日に木津川の畔で、興福寺の僧によって重衡は首を斬られました。

処刑される時、重衡はずっと念仏を唱えていたそうです。

あの夜、強風が吹かなければ、平重衡の運命は変わっていたかもしれませんね。

安福寺と平重衡首洗池

木津川市のJR木津駅から北に10分ほど歩いたところに安福寺という寺院が建っています。

安福寺

安福寺

安福寺には、平重衡が処刑される際に持っていたと伝えられている阿弥陀像が本尊として祀られています。

また、境内には重衡の墓塔と伝えられている十三重石塔が建っています。

十三重石塔

十三重石塔

安福寺は、重衡の死を哀れんだ人々によって、いつしか哀堂(あわんどう)と呼ばれるようになったそうです。

安福寺の門の前には、平重衡首洗池への地図が貼ってあったので、そこに行ってみることに。

地図にしたがって民家の細い道を進んでいくと、雑草や木が生えた空き地のようなところに到着しました。

下の写真に写っているのが平重衡首洗池です。

平重衡首洗池

平重衡首洗池

重衡の首は、奈良の般若寺(はんにゃじ)にさらされました。

処刑後の首は、一旦この池で洗われたそうです。

池の近くには不成柿(ならずかき)という柿の木が植えられています。

不成柿

不成柿

この柿の木は、重衡が最後に食べた柿の種を植えて生長したもので、不思議と柿の実がならないそうです。

何気に柿の木を見上げてみると確かに柿の実がなって・・・・

いるじゃありませんか!

枝には柿の実がいっぱい

枝には柿の実がいっぱい

植えられて900年ほど経つと、さすがに実がなるのでしょうか。

それとも現在の柿の木は2代目以降のものなのでしょうか。

詳細はわかりません。

なお、平重衡の墓については、伏見区の日野にもあります。「わたしの青秀庵」というWEBサイトの下記ページで紹介されていますので、ご覧になってください。

  • 平重衡の墓

2013年12月31日追記:上記サイトは閉鎖ています。

また、安福寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

追記