一ノ谷の戦いと熊谷直実の出家・金戒光明寺

建久4年(1193年)、金戒光明寺でひとりの武将が出家しました。

法名は、法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)。

出家前の名は、熊谷直実。

一ノ谷の戦い

寿永3年(1184年)。

都落ちした平家から三種の神器を取り戻すため、後白河法皇は源氏に平家追討の命を下しました。

そして、源範頼(みなもとののりより)と義経の兄弟は、平家追討のため、現在の神戸市に向かって出陣します。

この源氏の軍の中には、熊谷直実の姿もありました。

一方、平家方は、神戸市の一ノ谷に陣を敷いていました。

これに対して、源氏方は、一ノ谷の東側の生田口から範頼の大手軍が進み、義経率いる搦手(からめて)は、迂回して一ノ谷の西に向かいました。

合戦は、まず2月4日に一ノ谷の北にある三草山で起こります。

三草山には、平資盛(たいらのすけもり)と有盛が陣を敷いていましたが、義経が夜襲をしかけたため、資盛軍は西へと敗走しました。

そして、義経は、土肥実平を一ノ谷の西側に向かわせます。

鵯越の坂落とし

2月7日。

一ノ谷の平家を東の範頼軍と西の実平軍が挟むような形で、本格的に合戦が始まりました。

この時、一ノ谷へ一番最初に攻め入った源氏の武将は、熊谷直実でした。

一ノ谷の戦いは、半日も経たずに源氏の勝利で終わりましたが、勝因は、義経の鵯越(ひよどりごえ)の坂落としだったと伝えられています。

義経は、70騎ばかりを引き連れ、一ノ谷の背後の鵯越の断崖から駈け下り、平家の陣に火を放ちました。

平家は、断崖から義経が駈け下りてくるとは想像もしていなかったので、大きな打撃を受け、船で一ノ谷から敗走していきました。

後白河法皇に騙された平家

一ノ谷の戦いは、義経の鵯越の坂落としという奇襲によって、源氏が勝利したと伝えられています。

しかし、源氏が一ノ谷で勝利した最大の理由は、義経の奇襲ではありません。

一ノ谷の戦いは、2月7日に起こりましたが、その前日の6日に平家の陣に後白河法皇の使者が訪れています。

その使者は、法皇が源平の和平を考えているから、2月8日までは合戦を行わないようにと平宗盛に伝えました。

同様の内容は源氏方にも伝えてあると使者が宗盛に言ったので、当然、平家方は7日に合戦が起こるとは全く思っていませんでした。

後白河法皇は、平家が持ち去った三種の神器を奪い返すことが目的だったので、源平の和平は考えておらず、最初から平家を騙すつもりで使者を送っていたのです。

騙し討ちにあった平家は、合戦の準備ができていなかったため、まともに戦うことができず、敗走したのです。

結局、平家を一ノ谷で破った源氏でしたが、後白河法皇の望む三種の神器を取り戻すことはできませんでした。

なお、一ノ谷の戦いについては、神戸市文書館の以下のページで詳しく解説されていますので、ご覧になってください。

敦盛の最期

敗北が確定的となった平家は、船で一ノ谷から敗走し始めます。

そんな中、波打ち際で一騎の平家の武者が、泳いで船に向かおうとしていました。

しかし、どれだけ泳いでも味方の船までの距離は一向に縮まりません。

すると、浜の方から、その騎馬武者に大きな声で呼びかける者が現れます。

それは、源氏の武者の熊谷直実でした。

直実は、騎馬武者に向かって、浜に戻って来て一騎討ちするように言います。

直実に呼び止められた騎馬武者は、その言葉に従って浜に戻り、一騎討ちに応じました。

直実と騎馬武者の一騎打ちは、すぐに決着がつき、直実がその武者に馬乗りになって首を斬ろうと兜をあげたところ、なんとその武者は我が子直家と同じくらいの年頃の少年でした。

直実は、その少年を哀れに思い、命を助けようとしましたが、すでに味方の兵が近くに迫っていたので、助けることができないと悟り、泣く泣く首を斬ることにしました。

そして、直実は、最後に少年の名を尋ねますが、その少年は、「名乗らずとも首実検をすればわかること」と言い残し、討ち取られました。

その後、その少年は、平教盛(たいらののりもり)の子の敦盛であったことがわかりました。

当時17歳と伝えられています。

一ノ谷の戦いで、世の無常を感じた直実は、その後、法然に弟子入りし、武士を捨て、出家しました。

出家の際、直実は、金戒光明寺の方丈裏の池で鎧を洗い、境内に植えられていた松に掛けたと伝えられています。

その時の松は、今も境内に植えられており、熊谷直実鎧掛けの松と呼ばれています。

熊谷直実鎧掛けの松

熊谷直実鎧掛けの松

出家し蓮生となった熊谷直実は、その後、人々に仏法を説き続け、承元2年(1208年)9月14日にその生涯を終えました。

熊谷直実には、他にも逸話が残っています。

ある時、専定という旅の僧が、東山区の豊国神社が建っている辺りの木陰で休憩していると2羽のカラスが梢に止まり、「今日は蓮生の極楽往生の日だ」と言って、飛び立ちました。

そして、専定が調べてみると、確かに同日同時刻に蓮生が亡くなっていたことがわかりました。

そこで、専定は、これは何かの因縁と思い、当地に草庵を結びました。

その草庵は、後に烏寺と呼ばれるようになり、今でも残っています。

烏寺

烏寺

2015年1月14日追記

2代目の熊谷直実鎧掛けの松が2013年9月に枯れたため、2014年に3代目が新たに植えられています。写真は以下の記事に掲載しています。



京都桜photo