瓶子は倒れても平氏は倒れなかった鹿ヶ谷の変

治承元年(1177年)6月1日。

平家を倒そうと謀反を企てた者達が捕えられる事件が起こりました。

世に言う鹿ヶ谷(ししがたに)の変です。

酒に酔いながら計画された謀反

謀反の計画は、鹿ヶ谷山荘で行われました。

鹿ヶ谷は、東山の奥深い場所にあり、現在は左京区となっています。

鹿ヶ谷山荘の持ち主は、法勝寺(ほっしょうじ)の庶務を取り締まる就行(しゅぎょう)という職にあった俊寛です。

当時の政治は、平家一門が要職についていましたが、それをおもしろく思わない公家達がたくさんいました。

そこで、治承元年5月26日に平家を倒す計画を立てるために平家をよく思わない者たちが、鹿ヶ谷山荘に集まったのです。

鹿ヶ谷山荘に集まったのは、西光法師、藤原成親と子の成経、平康頼、蓮浄、多田行綱、俊寛など。

この頃、平清盛は京都を留守にして福原におり、嫡男の重盛は病の床についていました。

平家を倒すには今しかない。

そう思って集まった反平家の者たちでしたが、謀反の計画は酒を飲みながら立てられました。

次第に酔い始めた者達は、足もふらつき、しまいには瓶子(へいじ=とっくり)を倒して酒をこぼしてしまいました。

それを見たある者が、「瓶子が倒れた。いや、平氏が倒れたぞ」と言い出し、他の者達も「これは良い。平氏が倒れた」などと喜び、はしゃぎだします。

しかし、これを冷静に見ていた多田行綱は、このようなことでは平家を倒すことはできないと思い、翌日、平清盛のもとへ事の次第を報告しに行ったのです。

鬼界ヶ島へ島流しとなった俊寛

行綱の報告を受けた清盛は、すぐに上洛し、謀反の企てに関与した者達を捕えます。

最初に捕えられたのは、西光法師でした。

西光法師は、拷問にかけられ、関与した者の名を自供。

そして、直ちに処刑されました。

西光が処刑された後も鹿ヶ谷に集まった者達が次々と捕えられます。

謀反の首謀者のひとりである藤原成親は、以前に平治の乱で平清盛と敵対しましたが、重盛の嘆願により罪を許され、さらに重盛に妹を嫁がせたり、清盛のおかげで大納言にまで出世しました。

平家の恩を忘れて謀反に加担した成親を清盛は許したくありませんでしたが、またも重盛の説得により命を救われ、備前の児島へ島流しとなります。

しかし、しばらくの後に成親は、配流先で亡くなります。一説には、平家の武者に暗殺されたとも言われています。

成親の他にも謀反に加担した者たちは、次々と島流しとなり、そして、俊寛、平康頼、藤原成親の子成経は、鬼界ヶ島へ配流となりました。

鬼界ヶ島は、現在の硫黄島と言われていますが、当時としては、ここへの島流しはかなり厳しい処分でした。

配流先で、平康頼と藤原成親は、謀反を企てたことを反省し、毎日熊野権現(くまのごんげん)に罪が許されることを祈り続けましたが、俊寛は全く反省しませんでした。

そして、しばらくして都から赦免の報告が鬼界ヶ島に届きます。

3人は、この報告を聞き大変喜びました。

しかし、康頼と成親は都へ戻ることを許されましたが、謀反を企てたことを全く反省していなかった俊寛だけは許されませんでした。

康頼と成親が舟に乗って鬼界ヶ島を去る時、俊寛は泣きながら自分も都に帰りたいと嘆願しましたが、結局、一人だけ島に置き去りとされました。

その後、法勝寺に仕えていた有王という者が、俊寛に会いに鬼界ヶ島に行きます。

有王が見た時、俊寛は痩せ衰えていました。

そして、俊寛は半月ほど後に亡くなり、有王は遺骸を荼毘(だび)に付し、遺髪を彼の娘に届けたそうです。

鹿ヶ谷山荘跡を探しに行ってみた

現在、鹿ヶ谷山荘はどうなっているのか。

そう思い、実際に鹿ヶ谷山荘に行ってみることにしました。

当然、平安時代の山荘なので、今は残っていないのですが、その跡地には石碑があるとのこと。

場所は、哲学の道の中間地点付近から東の山に向かって進んだところのようです。

途中、霊鑑寺の近くに「此奥 俊寛山荘地」と書かれた柱があります。

此奥俊寛山荘地

此奥俊寛山荘地

ここをまっすぐ進むと鹿ヶ谷山荘跡のようですね。

しばらく坂道を上ると民家が無くなり、森の中へと入っていきます。

すると下のような木の柱に「鹿ヶ谷山荘」と書かれていました。

鹿ヶ谷山荘と書かれた木の柱

鹿ヶ谷山荘と書かれた木の柱

ここが鹿ヶ谷の変の現場かと思って見ていたのですが、どうやらここではないようです。

近代的な建物が建てられており、どう見ても平安時代のものとは思えません。

そして、また少し坂道を上ると行き止まりの様な場所に着きました。

行き止まりのような場所

行き止まりのような場所

近くに石碑があり、読んでみると俊寛僧都旧跡道と刻まれています。

俊寛僧都旧跡道

俊寛僧都旧跡道

どうやら、この辺りのようですが、鹿ヶ谷山荘の跡地らしきものはどこにもありません。

近くに瑞光院というお寺があったので、もしかしたら、そこにあるのではと思い境内に入ってみました。

瑞光院

瑞光院

境内には、いろいろな建物がありますが、人影はまったくありません。

鹿ヶ谷山荘の跡らしきものも、どこにもありません。

鹿ヶ谷山荘跡を探しに2回この場所を訪れたのですが、結局、よくわりませんでした。

仕方なく、さっき見た「俊寛僧都旧跡道」の石柱がそれなんだろうと自分を納得させて帰ることに。

家に帰って本を調べてみると、やはり、他に鹿ヶ谷山荘跡はあるようです。

そこで、検索してみると「大文字山を食べる」さんで鹿ヶ谷山荘跡が紹介されていました。

実は、行き止まりと思っていた場所から先があったようです。

道路は舗装されておらず、険しい山道を歩いて行くと鹿ヶ谷山荘跡に着くようですね。

詳しい内容は、「大文字山を食べる」さんの下記記事をご覧になってください。3回に渡って、詳しくレポートされていますね。

私も事前にこの記事を見ておけば迷わなかったでしょうね。次、探しに行く時は必ず見つけます。