源義経の奥州平泉への旅立ちの地・首途八幡宮

平治元年(1159年)に起こった平治の乱で、平清盛が源義朝に勝ち、以後20年以上に渡る平家全盛期が訪れました。

しかし、清盛が亡くなって、すぐに平家は衰退し、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏に滅ぼされることになります。

その時、平家を滅ぼした源氏の武将が、源義経でした。

常盤御前と3人の男子

平治の乱の後、源氏の落ち武者狩りが行われ、義朝の嫡男であった義平など、源氏の一族が捕えられ、次々と処刑されていきます。

義朝には、8人(9人とも)の男子がおり、その内、3人は常盤御前との間に生まれた子でした。

常盤御前は、義朝の妻になる前は、宮中に仕えていました。

彼女は、まず100名の中から10名が選ばれ、その10名の中から選ばれた美人として宮中に仕えることになったと伝えられています。

しかし、平治の乱で夫の義朝が負けたため、常盤御前も平家の手の者に追われることになってしまいました。

もしも、平家の追手に捕えられると今若、乙若、牛若は処刑されてしまいます。

だから、3人の子を守るため、常盤御前は、平家の追手に見つからないよう、人目に付かない場所に隠れていました。

しかし、このまま隠れていても、いつか見つかってしまうことは明らか。

そこで、彼女は、意を決して、自ら清盛のもとに出向くことにしました。

出頭してきた常盤御前を見て、清盛は彼女の命は助けるが、3人の子は処刑すると告げます。

これに対して、常盤御前は自分の命は構わないが、3人の子の命だけは助けてほしいと嘆願します。

清盛は、3人とも処刑するつもりでいましたが、少し前に継母の池ノ禅尼の嘆願で当時12歳だった源頼朝の命を助けており、また、常盤御前を自分に仕えさせようと考えていたため、最終的に3人とも命を助けお寺に預けることにしました。

この時、鞍馬寺に預けられた末っ子の牛若が、五条大橋で弁慶と出会った牛若丸で、後に源義経となるのでした。

鞍馬を抜けだし奥州へ

鞍馬寺に預けられた牛若は、平家に監視されながらも、すくすくと育っていきます。

そして、牛若は、平家の監視の目を盗み、源氏の残党と密かに会い、鞍馬寺を抜け出す準備を進めます。

牛若が16歳になったある日、遂にその時がやってきました。

彼は、平家に気付かれないように鞍馬寺を抜け出し、金売り吉次の邸宅へ。

吉次は、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に仕える商人で、定期的に京都にやって来ては商売をしていました。

その吉次の京都の邸宅があったとされているのが、現在の京都市上京区にある首途八幡宮(かどではちまんぐう)です。

首途八幡宮

首途八幡宮

承安4年(1174年)、牛若は、この地から金売り吉次に伴われて、京都を脱出し平泉に旅立ちます。

現在、首途八幡宮の境内には、「源義経奥州首途之地」と刻まれた石碑が置かれています。

源義経奥州首途之地

源義経奥州首途之地

牛若がこの地から奥州平泉に旅立ったことが、後に平家の滅亡へとつながるなど、当時、平清盛は思いもよらなかったことでしょう。

そして、数年後、義経となった牛若は、平家追討のために京都に戻ってきます。

彼は、平家追討の門出に際し、この地に宇佐八幡を勧請(かんじょう)し、武運長久を祈願したとされ、一説によれば、これが首途八幡宮の由来ともされています。

このような言い伝えから、首途八幡宮は、旅行安全勝運のご利益があると信仰されています。

なお、首途八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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