九重塔が建っていた白河院址

京都市左京区の平安神宮の東、京都市動物園の北に大きなお屋敷があります。

このお屋敷は、白河院といい、現在は宿泊施設となっています。

ここは、平安時代、藤原良房の別荘白河院があった場所。

それを示す石碑が宿の門前に立っています。

法勝寺の九重塔

下の写真に写っているのが、「白河院址」と刻まれた石碑です。

白河院址の石碑

白河院址の石碑

白河院は、藤原北家によって代々受け継がれ、平安時代後期に白河天皇に献上されました。

そして、白河天皇は、承保2年(1175年)にこの地に法勝寺(ほっしょうじ)というお寺を建てます。

法勝寺はとても大きなお寺で、その規模は4町(約400メートル)もあり、金堂、五大堂、八角堂、常行堂などの諸堂が建ち並んでいました。

中でも、立派だったのが、永保3年(1083年)に完成した八角の大塔の九重塔です。

高さは80メートルとも90メートルとも言われているので、現在、木造建設で最大とされる東寺の五重塔の55メートルよりも相当高い建物だったことになります。

この九重塔は、法勝寺の中心をなす建物で、池の中島に建てられていたそうです。

池に囲まれて建つ九重塔は、とても豪華に見えたことでしょう。

これだけ大きなお寺を建てた白河天皇は、平安時代の貴族の代名詞ともされる藤原道長を密かにライバル視していたのかもしれません。

道長は現在の京都御所のやや東に法成寺(ほうじょうじ)という大きなお寺を建てました。その法成寺には、金堂、五大堂など法勝寺にも建てられたお堂があり、その規模はとても大きかったと伝えられています。

白河天皇が、自らが創建したお寺に法勝寺という名を付けたのは、道長の法成寺をしのぐという意味を持たせたといわれているので、心の中で道長と張り合おうという意識があったと考えても不思議ではないわけです。

武家政治の到来とともに衰退した法勝寺

白河天皇が、法勝寺を建てた後、白河の地には、鳥羽天皇の最勝寺、堀河天皇の尊勝寺、鳥羽天皇の中宮待賢門院の円勝寺、崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺が、80年の間に次々と建ち並びます。

これら皇室ゆかりの御願寺が建ち並ぶ白河は、京と並び称されるほどの繁栄をみせ、上記6つのお寺は、総称して六勝寺と呼ばれるようになりました。

しかし、これだけ繁栄した法勝寺も、政治の中心が朝廷から武家に移っていくに従い衰退していきます。

平家が滅亡した元暦2年(1185年/文治元年)には、京都を大地震が襲い、堂塔伽藍は壊滅的な打撃を受けます。

この時、九重塔は倒壊を免れましたが、もともと中島に建てられていたため、柱は地震が起こる前から湿気によって傷んでおり、ぼろぼろの状態となっていました。

さらに承元2年(1208年)には、落雷により九重塔が焼失します。

この時は、栄西によって一部が再建されたものの、康永元年(1342年)にも火災が起こり、残っている堂宇も焼けてしまいました。

この後も再建が試みられましたが、徐々に寺は衰退していき、廃寺となります。

現在の白河院には7代目小川治兵衛が造園した白河院庭園があります。

私が訪れた時は、植木屋さんのトラックが門前に止めてあり、中に入れそうになかったのですが、どうやら、フロントで庭園を拝観したい旨を伝えると、見せてもらえるそうです。

「ほっこりオヤジの『つれづれ街ある記』」さんの南禅寺界隈の植治の庭巡り(2) ?「白河院」と「南禅院」の記事に白河院庭園の写真が掲載されています。

食事をしながら庭園を眺めることもできるそうなので、この付近の散策の際に休憩を兼ねて訪れると良さそうですね。