安珍・清姫の鐘が伝わる妙満寺
叡山電車の木野駅を出て南に約3分歩いたところに妙満寺という日蓮宗のお寺があります。 かつては、中京区にあった妙満寺は、昭和43年(1968年)に閑静な現在地に移転しています。 その妙満寺には、雪月花の三名園のうちの雪の庭があります。 雪の庭は拝観することができ、その際、安珍と清姫の鐘と呼ばれる道成寺(どうじょうじ)の鐘も鑑賞できます。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
叡山電車の木野駅を出て南に約3分歩いたところに妙満寺という日蓮宗のお寺があります。 かつては、中京区にあった妙満寺は、昭和43年(1968年)に閑静な現在地に移転しています。 その妙満寺には、雪月花の三名園のうちの雪の庭があります。 雪の庭は拝観することができ、その際、安珍と清姫の鐘と呼ばれる道成寺(どうじょうじ)の鐘も鑑賞できます。
京都市東山区の清水寺は、延暦17年(798年)に建立されました。 創建当時は北観音寺と呼ばれていた清水寺は、今昔物語に建立の伝説が収録されています。 今回の記事では、清水寺創建の伝説を紹介します。
平清盛の母は、祇園女御(ぎおんのにょうご)と伝えられています。 祇園女御は、白河法皇の寵姫でしたが、平忠盛に与えられ、そして、清盛を生みました。 祇園女御が、平忠盛のもとにやってきたときには、すでに妊娠していたとされていることから、平清盛は、白河法皇の子供だとも伝えられていますね。 その祇園女御ですが、晩年は、京都市東山区の円山公園の近くで余生を送ったと言われています。
平安時代に丹波康頼(912-995年)という人がいました。 丹波康頼は、医博士、針博士で、日本最古の医学書である「医心方」を著しました。 その医心方の記念碑が、京都市東山区の今熊野観音寺の境内にあります。
京都市東山区の東福寺には、退耕庵という塔頭(たっちゅう)が建っています。 退耕庵は、貞和2年(1346年)に東福寺第43世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建されたので、南北朝時代にできたお寺です。 ところが、退耕庵には、それよりも古い平安時代に活躍した小野小町ゆかりの玉章地蔵(たまずさじぞう)が小町堂と呼ばれる地蔵堂に安置されています。 この玉章地蔵は、いったいどのような理由で退耕庵に祀られるようになったのでしょうか。
京都市上京区に北野天満宮が建っています。 祭神として祀られているのは、学問の神さまで有名な菅原道真ですね。 菅原道真が北野天満宮が建つ地に祀られるようになったのは、彼の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)に道真の託宣が下り、北野の右近の馬場に祀るようにと告げられたからだと伝えられています。 ところで、道真は、なぜ右近の馬場に祀るように告げたのでしょうか。
9月中旬 。 京都市下京区の東本願寺に参拝した後、東に5分ほど歩き、文子天満宮(あやこてんまんぐう)にもお参りしました。 文子天満宮は、天満宮となっているように学問の神さまの菅原道真を祀っています。 京都だと、菅原道真を祀る神社は、上京区の北野天満宮が最も有名ですが、ここ文子天満宮は、その北野天満宮の前身にあたる神社なのです。
9月中旬。 京都市南区に建つ城興寺に参拝しました。 城興寺は、小さなお寺なので、あまり人に知られていません。 でも、洛陽三十三所観音霊場めぐりの第二十二番札所なので、御朱印をいただきに参拝したことがあるという方はいらっしゃるでしょう。 城興寺は、平安時代に施薬院があった場所とされているので、歴史的には重要な場所に建っていると言えます。
平安時代、京都には外国からの賓客をもてなす鴻臚館(こうろかん)と呼ばれる施設がありました。 平安京の中心を南北に朱雀大路が設けられ、その南には羅城門が建ち、左右に東寺と西寺が建立されました。 そして、羅城門から北に進み、七条に朱雀大路を挟んで東鴻臚館と西鴻臚館が造営されました。
京都市上京区にある京都御所は、元弘元年(1331年)に光厳天皇(こうごんてんのう)が即位して以降、天皇の住いである内裏(だいり)となりました。 かつて、平安京の大内裏は、現在の京都御所よりもっと西にあり、二条城が建つ辺りでした。 その大内裏の中に内裏があったのですが、火災に遭うたびに貴族の邸宅を仮の内裏として一時的に利用していました。 この仮の内裏を里内裏(さとだいり)と言います。 そして、元弘元年に土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を里内裏として以来、明治2年(1869年)まで御所として使われ続けました。