藤原氏の栄華の跡・東三条院址

京都市中京区の押小路通と釜座通が交差するあたりに東三条院址(とうさんじょういんし)の石碑を発見しました。

腰よりも低い石碑なので、普通なら見向きもせずに通り過ぎてしまうのですが、近くに京都市の説明書が立っていたので、近寄ってじっくりと観察することにしました。

ここはどうやら平安時代に貴族の屋敷があった場所のようです。

三条天皇と一条天皇の生誕の地

下の写真に写っているのが、東三条院址の石碑です。

東三条院址

東三条院址

石碑には、「此付近 東三条殿址」と刻まれています。

北は二条通、南は御池通、東は新町通、西は西洞院通に囲まれた一角は、平安時代に藤原氏の屋敷があった場所です。

説明書によると、南北280メートル、東西130メートルもあったというのですから、その敷地が広大だったことがわかりますね。

もともとは、平安時代初期に醍醐天皇の皇子の重明親王(しげあきらしんのう)の邸宅だったのですが、これを藤原良房が譲り受けて、以後、藤原氏の屋敷となりました。

後に皇妃や母后となった藤原氏の女子が住む慣わしとなり、藤原兼家の娘の超子(ちょうし)が冷泉天皇の女御(にょうご)となって三条天皇を出産、彼女の妹の詮子(せんし)も円融天皇の女御となって一条天皇を出産しています。

もちろん出産したのは、ここ東三条院です。

その後、屋敷は藤原道長に引き継がれます。

道長と言えば、平安時代を代表する貴族として有名ですね。日本の貴族と言えば、すぐに藤原道長の名が頭に浮かびます。

道長は、天皇を招いて、屋敷内の庭の池に龍頭船を浮かべて遊宴を催したと伝えられています。

近くに池らしきものが存在しないので、そのような遊宴が行われていたとは、すぐに想像できませんが、きっと豪華なものだったのでしょうね。

しかし、藤原氏が栄華を極めた時代もやがて平安時代末期に終わりを迎えます。

理由は、武家の平清盛が政治の中心となったからです。

平清盛が現れたことで、藤原氏が無くなってしまっということではないのですが、その勢いは衰え、これ以降は歴史の舞台にあまり出てこなくなります。

そして、平家全盛の安元3年(1177年)に東三条院は、火災によって焼失しました。

今残っているのが、上の写真に写っている背の低い石碑だけというのは、何か悲しいものがありますね。

東三条院址の石碑を見ていると、栄枯盛衰は世の常なんだなということを考えさせられます。

この地が藤原氏が栄華を極めたところだったということがわかるだけでも、例え小さくても、東三条院址の石碑に存在価値があると言えるのではないでしょうか。