明治天皇生誕の地・中山邸跡
京都御所の一般公開で、明治天皇紀附図のパネル写真が一部公開されていました。 その中で、京都御苑の北側にある中山邸跡が明治天皇生誕の地として紹介されていたので、御所の拝観を済ませた後に中山邸跡にも寄ってみることにしました。 中山邸跡は、以前にも見たことはあったのですが、通り過ぎる時についでに見る程度だったので、今回はじっくりと見学することに。
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京都御所の一般公開で、明治天皇紀附図のパネル写真が一部公開されていました。 その中で、京都御苑の北側にある中山邸跡が明治天皇生誕の地として紹介されていたので、御所の拝観を済ませた後に中山邸跡にも寄ってみることにしました。 中山邸跡は、以前にも見たことはあったのですが、通り過ぎる時についでに見る程度だったので、今回はじっくりと見学することに。
京都市上京区の同志社大学の近くを歩いていると、人の背よりも高い石碑を発見しました。 その石碑の前の説明書には、藤井右門(ふじいうもん)宅跡と書かれていました。 藤井右門は、忠臣蔵でおなじみの赤穂藩の家臣であった藤井又左衛門の子で、赤穂藩取り潰しの後、又左衛門が移り住んだ越中国射水で享保5年(1720年)に生まれました。
慶応4年(1868年)4月25日。 この日、東京の板橋で新撰組局長の近藤勇(こんどういさみ)が斬首されました。 その後、彼の首は京都に送られ、三条河原にさらされました。
平安時代中期の陰陽師(おんみょうじ)と言えば、安倍晴明。 夢枕獏の小説「陰陽師」の中で、安倍晴明は、都に跋扈(ばっこ)する魔物たちを呪法によって退治するモンスターハンターのように描かれています。 そんな安倍晴明も人間なので、やがて寿命が訪れます。 彼は、寛弘2年(1005年)9月26日に85歳でこの世を去ったと伝えられています。
慶応元年(1865年)2月21日。 ひとりの新撰組隊士が脱走しました。 その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。 山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。 組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。
日本映画の父といわれているマキノ省三の像が京都市北区にあります。 なぜ、彼の像が京都市にあるのか。 それは、マキノ省三が、最初の撮影所を京都市に創設したことが理由です。
藤原定家、足利義政、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)。 彼らには共通点があります。 それは、同じ場所にお墓があるということです。 3人のお墓があるのは、京都市上京区の相国寺です。
京都市左京区にある鞍馬寺の境内に鬼一法眼社(きいちほうげんしゃ)という神社が建っています。 鬼一法眼は、平安時代末期の陰陽師(おんみょうじ)で、義経記(ぎけいき)に登場する人物です。
京都市には海がないのに海水を焼いて塩を取る塩焼きが行われた場所が2つあります。 ひとつは西京区の十輪寺で、もうひとつは下京区の本覚寺です。 塩焼きが行われたのは、平安時代前期です。 十輪寺では在原業平(ありわらのなりひら)が、本覚寺では源融(みなもとのとおる)が塩焼きをしました。
京都市右京区の嵯峨野に小倉あん発祥の由来と書かれた説明書が立っている畑があります。 その畑の近くには、いつごろ置かれたものなのかわかりませんが、土佐四天王と呼ばれる4人の像が並んでいます。