桂小五郎と幾松の墓・京都霊山護国神社

西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれている木戸孝允(きどたかよし)。

京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、彼のお墓があります。

木戸孝允は、桂小五郎ともいい、こちらの名の方がご存知の方が多いようで、京都霊山護国神社の墓地へと進む途中にある案内板には、木戸孝允と桂小五郎は同一人物といった旨が書かれています。

間一髪で命を救われる

桂小五郎は、長州藩の出身です。

文久3年(1863年)に起こったクーデターで、長州藩は御所の警備から外され京都から追放されました。

これ以降、幕府は長州藩士を見れば、すぐに捕縛するようになり、桂小五郎も何度も捕まりそうになりましたが、そのたびにうまく逃れていました。

桂小五郎にとって最大のピンチとも言えるのが、元治元年(1864年)に起こった池田屋事件でした。

池田屋事件は、三条小橋西詰にあった池田屋で長州系の浪士たちが密会している現場に新撰組が踏込んだ大捕物で、この時に多くの志士が命を落としました。

桂小五郎も会合に出席する予定だったのですが、池田屋についたときには、まだ誰もいなかったため、一旦、近くの対馬藩邸に用事をしに行きました。

桂小五郎が対馬藩邸にいるちょうどその時に池田屋事件が起こったのです。

池田屋事件から1ヶ月後、長州藩が大挙して京都に攻め込む蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こりました。

しかし、長州藩は、会津藩と薩摩藩を中心とする幕府軍に負けてしまいました。

この時の戦争で、京都では数万軒の家屋が焼失。

焼け出された町民たちは、鴨川のほとりで長期間の避難生活をおくることになりました。

この避難者の中に混ざって、桂小五郎も鴨川のほとりで身を隠しながら生活していました。

この時、桂小五郎の面倒をみたのが、後に妻となる芸者の幾松でした。

その後、桂小五郎の消息はわからなくなり、幕府だけでなく長州藩も彼が生きているのかどうかわからないまま約半年が経過。

彼は、京都から脱出し、但馬(兵庫県)の出石に潜伏していたのです。

薩長同盟締結のために再び京都へ

京都から無事に脱出した桂小五郎でしたが、その後、再び京都に舞い戻ることになります。

その理由は、薩長同盟の締結のためです。

長州藩は、蛤御門の変で薩摩藩に痛い目に合わされたので、多くの藩士が薩摩藩を憎んでいました。

しかし、国難が続く中、力を持っている長州藩と薩摩藩がいがみあっていたのでは、日本にとって不利益だと考えた坂本竜馬と中岡慎太郎が、両藩の間に入って、手を結ばせようとしたのです。

桂小五郎も坂本竜馬や中岡慎太郎の言うことはもっともだと思い、危険を覚悟で京都の薩摩藩邸へと向かい、いろいろともめることはありましたが、最終的に薩摩藩と手を組むことにしました。

この時、桂小五郎が京都の薩摩藩邸に行かなければ、薩長同盟の締結はなかったかもしれませんし、そうすると明治維新は訪れなかったかもしれません。

病床で不満が募る晩年

明治を迎えて桂小五郎は、木戸孝允と名乗るようになっていました。

この頃の木戸孝允は、岩倉遣欧使節団に加わって海外視察をしたりと、忙しい日々をおくっていたわけですが、病気に悩まされることも多くなりました。

また、明治政府の政策と木戸孝允の理想とする政治との間に食い違いが出てきたことに対しても不満が募るようになってきました。

そんな中、共に明治維新を実現した西郷隆盛が、韓国を開国させるべきだという征韓論を唱えましたが、議会で否決されたことから中央政界を去り、鹿児島に戻って西南戦争を起こします。

木戸孝允は、西南戦争のことをとても気にしていたようで、病床で「西郷よ、いいかげんにしろ」とつぶやき、明治10年(1877年)5月26日に息を引き取りました。

享年45歳。

木戸孝允のお墓は、京都霊山護国神社の墓地の中で、最も高い場所にあります。

桂小五郎の墓

桂小五郎の墓

維新の三傑と言われただけあって、お墓も立派です。

その隣には、妻の幾松のお墓もあります。

幾松の墓

幾松の墓

幾松は、木戸孝允と結婚し松子という名になりました。

お墓にも幾松ではなく松子と刻まれています。

なお、京都霊山護国神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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