平重衡の運命を変えた南都焼討・安福寺
治承4年(1180年)5月。 以仁王(もちひとおう)が源頼政とともに平家追討のために挙兵します。 以仁王側には園城寺(おんじょうじ)などの僧も加わりましたが、最終的に平家によって鎮圧されました。 この挙兵に僧が加わったことが、後に平家による南都焼討へとつながり、その時の総大将であった平重衡(たいらのしげひら)の運命を変えることになります。
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治承4年(1180年)5月。 以仁王(もちひとおう)が源頼政とともに平家追討のために挙兵します。 以仁王側には園城寺(おんじょうじ)などの僧も加わりましたが、最終的に平家によって鎮圧されました。 この挙兵に僧が加わったことが、後に平家による南都焼討へとつながり、その時の総大将であった平重衡(たいらのしげひら)の運命を変えることになります。
寿永4年(1185年/元暦2年)2月。 現在の香川県で、源氏と平家が合戦をしました。 世に言う屋島の戦いです。 屋島の戦いで有名なのが、源氏の武者で弓の名手である那須与一(なすのよいち)の活躍です。
京都市上京区の京都御苑の東にたくさんの木が生い茂った場所があります。 そこには、木々の中に埋まるように梨木神社(なしのきじんじゃ)という神社が建っています。 たくさんの木が生い茂っている場所に建てられた神社なので、かなり昔から存在していたんじゃないかと思っていたのですが、実は創建時期は明治時代だそうです。
平安時代末期、祇王という白拍子がいました。 白拍子とは、当時の男性の恰好をして、歌を歌ったり、舞を披露する女性のことです。 祇王は、白拍子の中でも歌や舞がとても上手だったので、当時の都では、その名が知られていました。
平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。 清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。 また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。 この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。
源平の争乱の始まりとなったことで有名なのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱です。 保元の乱の時は、まだ源氏と平家が戦うというよりも朝廷を中心とした争いに源氏と平家が参加したという形でした。 乱の原因は、後白河天皇と崇徳上皇との間の権力争いだったのですが、その争いに源氏も平家も身内同士で戦うことになります。 特に源氏は、父の源為義と長男の義朝が敵味方となって戦い、義朝の弟たちは父・為義につきました。 そして、その弟達の中には、弓の名手として知られる源為朝も混ざっていたのです。
平安時代後期、若干2歳にして即位した天皇がいました。 それは、近衛天皇です。 近衛天皇の父は鳥羽天皇で、兄に崇徳天皇がいます。 近衛天皇は、即位した年齢が幼かっただけでなく、17歳という若さでこの世を去っています。
普段の生活の中で、よく親しまれている飲み物としてすぐに思いつくのがお茶ではないでしょうか。 おそらく、今までに一度もお茶を飲んだことがないという方は、ほとんどいらっしゃらないと思います。 それどころか、一日一度は必ずお茶を飲むという方も多いことでしょう。 そんな親しみ深いお茶ですが、日本最古の茶園が、京都市右京区の北の方の栂尾(とがのお)に建つ高山寺の境内にあります。
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した武将の中に佐々木道誉(ささきどうよ)という人物がいます。 佐々木道誉は、身なりを派手に飾り、遠慮なく振る舞う性格で、当時の人々は彼を婆沙羅大名(ばさらだいみょう)と呼びました。
京都市伏見区の下鳥羽に恋塚寺というお寺があります。 恋塚寺は、国道1号線と桂川の間に建つ小さなお寺のため、うっかり民家と間違えて通り過ぎそうになってしまいます。 この小さなお寺は、平安時代末期に袈裟御前の菩提を弔うために建てられました。