京都に関係する人物一覧

平家の運命を変えた平清盛の二人の母

平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。 清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。 また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。 この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。

源為朝が射抜いた石・平岡八幡宮

源平の争乱の始まりとなったことで有名なのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱。 保元の乱の時は、まだ源氏と平家が戦うというよりも朝廷を中心とした争いに源氏と平家が参加したという形でした。 乱の原因は、後白河天皇と崇徳上皇との権力争いだったのですが、その争いに源氏も平家も身内同士で戦うことになります。 特に源氏は、父の源為義と長男の義朝が敵味方となって戦い、義朝の弟たちは父・為義につきました。 その弟達の中には、弓の名手として知られる源為朝も混ざっていたのです。

世阿弥と新熊野神社

前回の記事では、京都の熊野三山を紹介しました。 その熊野三山のひとつである新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、能楽の大成者である世阿弥と縁があることで知られています。 そこで、今回は世阿弥と新熊野神社を簡単に紹介します。

伊東甲子太郎ともうひとつの新撰組・御陵衛士屯所跡

幕末の京都の治安を守った新撰組を代表する事件と言えば、元治元年(1864年)に起こった池田屋事件ですね。 この時、長州藩の浪士たちを斬って、京都放火計画を未然に防いだわけですが、その後に長州藩が報復とばかりに藩兵を率いて上洛し、京都で市街戦が繰り広げられました。これが蛤御門の変です。 この2つの事件の後、新撰組は新たに隊士を増やすために江戸から有望な人材をスカウトしてきました。 その中の一人が伊東甲子太郎(いとうかしたろう)です。

伊藤若冲と京都

石峰寺の羅漢参道にびっくりの中でたくさんの石仏について紹介しました。 この石仏の下絵をしたのが伊藤若冲たっだのですが、若冲はいったいどういう人物で京都とどのような関係があったのでしょうか? 少しばかり調べてみたので、紹介したいと思います。