京都に関係する人物一覧

建礼門院徳子が隠棲した寂光院

寿永4年(1185年/元暦2年)3月の壇ノ浦の戦い後に長楽寺で出家した建礼門院徳子は、しばらくして吉田山の庵に移ります。 しかし、吉田山は都から近く、高倉天皇の中宮であり、安徳天皇の母であった彼女の哀れな姿を見ようと野次馬が覗き見しにくることもありました。 そこで、彼女は、同年9月に都から離れた山奥の大原に隠棲することにしました。

卒塔婆流しで知られる平康頼の塔・大徳寺

治承元年(1177年)に当寺権勢をふるっていた平家を倒そうという計画がありました。 世に言う鹿ケ谷の変です。 この計画は、事前に平清盛に察知され、関係者は捕えられ、処刑されたり、島流しにされたりしました。 鹿ケ谷の変に関わり島流しとなった者の中には、平康頼という人物もいました。

常盤御前ゆかりの地・源光寺

平治元年(1159年)。 平清盛と源義朝が戦う平治の乱が起こりました。 平治の乱は、最終的に平清盛の勝利に終わり、源義朝は家臣の長田忠致(おさだただむね)の裏切りにより、この世を去りました。 また、平家は、義朝の長男の義平も捕え、六条河原で処刑しました。 他にも義朝には、たくさんの子がおり、平家はその子たちを捕えようと都とその周辺を探索します。 その中には、義朝と常盤御前の間に生まれた3人の男子も含まれていました。

幕末維新に2度命を助かった西園寺公望

近代の政治家の中には、幕末維新の動乱をくぐりぬけてきた人物がたくさんいます。 西郷隆盛や大久保利通など、明治時代前期の政治家が、その典型ですね。 明治維新から約70年経った昭和15年(1940年)。 すでに幕末は、歴史の世界となりつつあった時代に西園寺公望(さいおんじきんもち)が亡くなりました。 西園寺公望は、明治時代後期の総理大臣で、最後の元老となった比較的現代に近い近代の政治家といったイメージがあります。 ところが、意外に思えるかもしれませんが、彼も幕末維新の動乱をくぐりぬけてきた政治家の一人だったのです。

天皇陵を訪れる・吉田山編

京都には、49ヶ所74人の天皇陵があります。 千年以上都がおかれた都市なので、やはり多いですね。 今までこのブログでは、あまり天皇陵を紹介してきませんでした。 どの天皇陵も見た目がほとんど同じというのが、その理由だったのですが、しかし、京都で天皇陵を無視するというのもどうかと思い、今回の記事から少しずつ紹介していくことにしました。 第1回目の今回は、左京区の吉田山付近にある後二条、後一条、陽成の3人の天皇陵を紹介します。

大徳寺と戦国武将

京都市北区の大徳寺には、たくさんの小さなお寺が建っています。 別院と塔頭(たっちゅう)を合わせると20以上になり、それらのいくつかは、戦国武将と関係があります。 そこで、今回の記事では、戦国武将と関係がある大徳寺の塔頭を紹介したいと思います。

明治維新の総仕上げをした大村益次郎

嘉永6年(1853年)のペリー来航から約15年の間、日本は幕末、維新の動乱の時代となりました。 この15年で、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)、坂本竜馬など明治維新に貢献した人物が多数出現します。 彼らの活躍によって明治維新の実現へと向かうわけですが、その総仕上げをするために彗星のように現れた人物がいました。 その人物の名は、大村益次郎(おおむらますじろう)。