野ざらしとなった会津藩士の遺体を埋葬した上坂仙吉

京都市左京区に金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)というお寺が建っています。

境内の東の小高い丘には、塔頭(たっちゅう)の西雲院(さいうんいん)が建ち、そこには、幕末に京都で亡くなった会津藩士たちの墓所があります。

墓所に埋葬された会津藩士は352名。そのうち237名が文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)に亡くなった藩士たちで、残り115名は慶応4年正月に起こった鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士たちです。

鳥羽伏見の戦いで会津藩は、旧幕府軍に属し、新政府軍と戦って負けています。

会津藩の戦死者は、戦場に野ざらしとされていましたが、会津藩の仲間(ちゅうげん)であった上坂仙吉によって西雲院の墓地に運ばれ埋葬されました。

藩祖保科正之の遺訓により京都守護職に

文久2年というと、諸国から浪士が京都に集まり、天皇を敬い外国人を日本から追い出す尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想を掲げて活動していた頃です。

彼らは、幕府関係者や公卿を暗殺していたため、京都の治安は悪化し、奉行所や京都所司代では手におえない状況となっていました。

そこで、幕府は京都の治安を守るために京都守護職を新たに作り、会津藩をその役職に就けることにしました。

しかし、会津藩にとって京都は、何の縁もゆかりもない地。当然、藩邸も持っていません。

また、ややこしい情勢であったことから家老の西郷頼母(さいごうたのも)は、今、京都守護職を引き受けることは火中の栗を拾うようなもので会津藩にとって何の得もないと主張し、藩主の松平容保(まつだいらかたもり)に京都守護職を辞退するように献言しました。

しかし、松平容保は、藩祖の保科正之(ほしなまさゆき)が、会津藩は徳川宗家と運命を共にしなければならないという言葉を遺していたことから、最終的に京都守護職を引き受ける決断をしました。

こうして、文久2年に会津藩は京都守護職となって上洛し、京都市左京区の金戒光明寺をその本陣としました。

金戒光明寺

金戒光明寺

翌年には、新撰組が結成され京都守護職預かりとなり、京都の治安が良くなっていきます。

しかし、その後も蛤御門(はまぐりごもん)の変などで京都の治安は乱れ、慶応3年までの5年間で会津藩士237人が亡くなり、西雲院に埋葬されました。

会津の小鉄

そんな中、上坂仙吉(うえさかせんきち)が金戒光明寺にやってきました。

仙吉は、天保4年(1833年)に大阪で生まれました。

父は東国の浪士ということになっていますが、仙吉はあったことがありません。また、母は、子供の頃に亡くなっています。

仙吉は、大坂から江戸に出て、安藤家の仲間となりました。

仲間とは、武家屋敷で奉公していた人のことで、簡単にいうと雑用係といったところです。

仲間となった仙吉は、仕事がない時は、仲間部屋でバクチをしていました。

仙吉の江戸での仲間としての生活は、仲間部屋頭つまりそこのボスともめ事を起こしたことが理由で終わり、その後、京都にやってきました。

京都では、賭場に食べ物を売りまわる生活をしていたようでしたが、やがて大垣屋清八という会津藩の仲間部屋の請負をやっている人物に見込まれ、金戒光明寺で会津藩の仲間として働くようになります。

会津藩の仲間として働いていた仙吉ですが、やはり、ここでもバクチをしていたようで、その世界では、名が通るようになっていました。

また、仙吉は、新撰組や会津藩の影の協力者としても活躍していたともいわれています

そして、いつの頃からか、仙吉は、「会津の小鉄」と呼ばれるようになっていました。

小鉄が会津藩の仲間として働いていたのはそれほど長くはなく、やがて、金戒光明寺の仲間部屋からその姿は見えなくなっていました。

小鉄が去った後の会津藩は、慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いで敗北。

藩主の松平容保は、15代将軍徳川慶喜とともに大坂城から軍艦に乗って江戸へと戻り、会津藩士たちもそれを追って江戸へと引き上げていきました。

その頃、小鉄は大坂で傷害事件を起こし牢屋に入っていましたが、鳥羽伏見の戦いが始まったことを理由に釈放されました。

釈放された小鉄は、その足で京都に戻ります。

その目的が何だったのかは知りませんが、戦場となった京都に儲け話が転がっていると思ったのかもしれません。

京都に戻った小鉄は、以前にお世話になった会津藩が大変なことになっていることを知ります。

鳥羽伏見に野ざらしとなっている会津藩士たちの遺体は、勝手に動かすと新政府からおとがめがあるかもしれないということで、住民たちも埋葬していいものかどうか迷っているような状態でした。

そこで、小鉄は、子分たちを使って、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士115人の遺体を金戒光明寺の塔頭西雲院の墓地まで運んで埋葬したのです。

しかし、寸前まで牢屋に入っていた小鉄が、すぐに子分たちを集めることができたというのは、いささか疑念があります。

これについては、高野澄氏が著書の「日本史の旅 京都の謎 幕末維新編」で興味深い推測をしています。

京都には、戦後も多くの会津藩兵が取り残されていたに違いありません。

彼らが右往左往する姿を見た小鉄は、何とかしてあげようと思い考えていたところ名案を思い付きます。

新撰組の上部機関として尊攘の志士を痛めつけた守護職の会津だ、官軍からはもっとも憎まれている。見つかったら最後、命がいくつあっても足りない。

そうと気づいた小鉄に名案が浮かんだ。

会津の小鉄が子分を使って会津兵の死体を黒谷に埋葬する―ということにして、じつは会津の敗残兵を自分の子分に化けさせてしまう。

これなら、出所したばかりの小鉄でも、人数を集めることができたでしょうし、会津の敗残兵も新政府軍に見つからずに江戸に戻ることができたのではないでしょうか。

しかし、これはあくまで推測であってどこにも証拠はありません。

ちなみに黒谷とは金戒光明寺のことです。

会津藩殉難者墓地と小鉄の墓

現在の西雲院は、秋になると美しい紅葉を見ることができるお寺として知られています。

西雲院

西雲院

下の写真に写っているのが、西雲院にある会津藩殉難者墓地です。

会津藩殉難者墓地

会津藩殉難者墓地

その後、小鉄は、洛北北白川で明治18年(1885年)3月19日に53歳で亡くなったと伝えられています。

小鉄の墓も西雲院の境内にあります。

会津の小鉄の墓

会津の小鉄の墓

小鉄の墓は、東を向いています。

その先には、会津藩殉難者墓地があり、まるで今でも小鉄が会津藩士たちを見守っているようです。

なお、金戒光明寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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