御池大橋の近くにある夏目漱石の句碑

明治時代から大正時代に活躍した文豪夏目漱石は、生涯に4度京都を訪れています。

最初は明治25年(1892年)の夏に友人の正岡子規と訪れ、その後、明治40年春、明治42年、大正4年(1915年)と京都に来ています。

最後の訪問の時は、京都市中京区の御池大橋付近の北大嘉(きたのたいが)という旅館に宿泊しています。

磯田多佳に贈った句

現在、御池大橋の西に夏目漱石の句碑が置かれています。

その句碑には、以下の句が刻まれています。

春の川を隔てて男女哉(おとこおみなかな)

この句は、夏目漱石が磯田多佳という女性に贈った句です。

夏目漱石の句碑

夏目漱石の句碑

句碑の説明書には、「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに」と書かれています。

磯田多佳という女性は、祇園白川のお茶屋「大友」の女将で、小説が好きで、俳句や書画もたしなむ女性でした。

その交友関係は、志賀直哉、谷崎潤一郎、吉井勇など日本を代表する作家だけでなく、画家の浅井忠(ちゅう)や横山大観とも親交があったということです。

4度目の京都旅行となった夏目漱石は、その時体調を崩していて、この旅行も病気療養のためでした。

漱石のファンだった磯田多佳は、この時、初めて彼に会います。

その直後に漱石が胃を患ったことから、彼女が看病をしていたということです。

ある日、2人の間に小さな行き違いが起こり、漱石は、宿泊している宿から鴨川をはさんだ祇園の多佳に思いを馳せながら発句を送ったそうです。

その句が、句碑に刻まれているものです。

翌年、漱石は、49歳でこの世を去りました。

夏目漱石の句碑が御池大橋の西に置かれたのは、磯田多佳に送った句とゆかりの場所ということが理由です。

句碑が置かれたのは、昭和41年(1966年)11月で、漱石会が夏目漱石生誕100年を記念して建立したということです。

今では、御池通はとても車の交通量が多い道路となっており、夏目漱石の句碑が置かれていることに何となく違和感を覚えてしまいます。

でも、御池通から木屋町を南に歩くと、そこには古い町並みが残っており、これは夏目漱石が京都に訪れた時と同じ景色なのかなと考えてしまいます。

漱石が、病気療養の地として京都を選んだのは、過去3度の旅行で何か京都の良さを感じたのかもしれませんね。

また、夏目漱石の句碑が置かれている辺りは、江戸時代に長州藩邸があった場所でもあります。

漱石の句碑とともに長州藩邸跡も見ておいてはいかがでしょうか。