長州藩邸跡と桂小五郎像

地下鉄京都市役所前駅の改札を抜けて、地上に上がると、京都ホテルオークラの大きな建物が現れます。

今では全く面影が残っていませんが、この地は、江戸時代に長州藩の屋敷が置かれた場所です。

幕末に炎上

長州藩と言えば、薩摩藩や土佐藩と協力して明治維新を実現したことで知られています。

幕末、長州藩は、京都で様々な活動を行いました。

その拠点となったのが、京都の長州藩邸です。

現在、長州藩邸があった京都ホテルオークラの敷地内の南に「長州屋敷址」の石柱が置かれています。

長州屋敷址

長州屋敷址

近くにある解説板の内容を読むと、藩邸は南北の2ヶ所に分かれており、北の屋敷は表口約70メートル、南の屋敷は表口約54メートルもあったそうです。

しかし、京都の長州藩邸は、元治元年(1864年)7月に炎上します。

1ヶ月前の6月。

長州系の浪士たちが、京都でテロ事件を起こそうと密儀を行っていました。

密議の場所は、池田屋です。

しかし、それを察知した新撰組が、池田屋を襲撃し、浪士たちは斬られたり、捕えられたりし、テロは未然に防がれました。

これを知った長州藩は、兵を率いて京都に乱入。

そして、御所に向かって攻撃を始めました。

しかし、長州藩の攻撃は、幕府軍によって鎮圧されます。

戦いに敗れた長州軍は、藩邸を捨てて京都から退却。

その際、長州軍か幕府軍のどちらかによって長州藩邸は火をかけられ、炎上しました。

この戦いは、蛤御門(はまぐりごもん)の変と呼ばれています。

逃げの小五郎

京都ホテルオークラの敷地の東には、桂小五郎の像が置かれています。

桂小五郎像

桂小五郎像

桂小五郎は、後に木戸孝允(きどたかよし)と改名しています。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は明治維新の功労者として、維新の三傑と呼ばれています。

幕末の京都での長州藩の活動は、桂小五郎を中心に行われていました。

そのため、彼は、新撰組に何度も狙われました。

池田屋事件の時も、小五郎は、密議に参加する予定だったのですが、偶然、池田屋に行くことができず、新撰組に捕えられずに済みました。

また、蛤御門の変の後も、新撰組は、小五郎を探しまわりましたが、一向に足取りがつかめません。

最終的に小五郎は、鴨川の畔でホームレスに変装するなどして、巧みに新撰組の目をごまかし、長州へと逃げることができました。

桂小五郎は、このように新撰組から逃げ回っていたことから、「逃げの小五郎」と呼ばれるようになりました。

幾松

桂小五郎が京都にいた頃、彼は、三本木花街吉田屋の芸妓の幾松のもとに足しげく通っていました。

そのため、幾松は、新撰組の大石鍬次郎(おおいしくわじろう)に捕えられてしまいました。

大石は、幾松が小五郎の居場所を知っているに違いないと思い、彼女を拷問にかけて白状させようとします。

しかし、彼女は、拷問されないまま釈放されました。

新撰組が女性を拷問にかけたということが噂になると、世間から非難を浴びるに違いないと考えた副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)が、幾松を助けたのです。

後に幾松は、木戸孝允と結婚し松子と改名します。

広瀬仁紀の小説「沖田総司恋唄」によると、幕府が倒れた慶応4年(1867年)に江戸で処刑された新撰組局長の近藤勇(こんどういさみ)の首が三条河原にさらされた時、夜中にそれを盗ませ、京都の某寺にほうむったのは木戸孝允夫人の松子だと流説されたそうです。

そんな噂が流れたのは、松子が、新撰組が拷問をせずに彼女を釈放した優しさに感動し、それを他人に語ったことが理由のようです。

現在、京都ホテルオークラの東に幾松という旅館が建っています。

この旅館は、幾松と桂小五郎の寓居跡で、有形文化財に登録されています。

地下鉄京都市役所前駅で下車した際は、長州藩と関係のある史跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。

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