2ヶ所にある佐久間象山遭難の碑

元治元年(1864年)7月11日。

この日、佐久間象山(さくましょうざん)が、三条木屋町で刺客に襲われて亡くなりました。

佐久間象山を斬ったのは、河上彦斎(かわかみげんさい)。人斬り彦斎という異名を持つ剣の達人です。

江戸で学問を学び、大砲に興味を持つ

佐久間象山は幕末の学者で、彼の影響を受けた者の中には、勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬、河井継之助と歴史に名を残した人物が多くいます。

象山は、23歳で江戸に出、佐藤一斎のもとで陽明学を学びます。

その頃、儒学者の林鶴梁(はやしかくりょう)と経義の論争をしましたが、若かった象山は論破されてしまいます。

しかし、彼は、頑固で有名だったため自分の負けを認めず食い下がりました。

これにあきれた林鶴梁が「頑迷救うべからず」と言ったのに対して、象山は「腐儒語るに足らず」と捨て台詞を残し去って行ったといわれています。

その後、象山は、西洋から入ってきた大砲の威力に魅了され、砲術家の江川太郎左衛門のもとで教えを受けます。

彼は、ただ大砲の操作を学ぶだけでなく、製造にまで手を伸ばすことにし、蘭学も学ぶことにしました。

象山は、信州松代藩出身で、その頭脳は、当時の藩主であった真田幸貫の役にも立ちました。

しかし、彼の門弟であった吉田松陰が、黒船に乗ってアメリカに密航しようとしたことが幕府にばれてしまい、その手助けをしたとして投獄されてしまいました。

赦免されて京都へ

象山が投獄されると、長州藩や土佐藩から松代藩に対して彼を自由にするようにという訴えがありましたが、松代藩は、その訴えを退け、9年間投獄生活を送ることになります。

その後、赦免された象山は600石で登用され、松代藩の表用人上席となりました。

彼の開国論と朝廷と幕府が助け合って国難を乗り切ろうという公武合体論は、幕府からも必要とされ、一橋慶喜の招きにより上洛することになります。

そして、元治元年3月17日に松代を出た象山は、29日に京都に到着し、幕府から海軍御備向御用雇を命じられ、400石が支給されました。

彼は、外出するときは、洋鞍を付けた馬に乗って部下を従わせていました。

その姿は、とても目立つもので、幕府の開国論を批判し、天皇を助け外国人を日本から追い出そうという尊王攘夷の思想を持った浪士たちにも、自然と知られるようになりました。

そんな中、6月に尊王攘夷派の浪士たちが新撰組によって襲撃される池田屋事件が起こります。

当然、京都の町は騒然となり、尊王攘夷派の幕府に対する不満は、爆発寸前のところまできていました。

そのような情勢の中、7月11日にいつものように洋鞍を付けた馬に乗り、佐久間象山が部下を連れて三条木屋町にやってきました。

これを待ち伏せしていたのが、河上彦斎と松浦虎次郎です。

彼らは、近くの店で佐久間象山が来るのを見張っており、その姿が見えると、さっと店を出て馬上の佐久間象山に河上彦斎が斬りつけます。

斬られた象山は、木屋町通を北に向かって馬を走らせましたが、それを追って走ってきた河上彦斎にさらに背中を斬られ、馬から落ちて絶命しました。

三条木屋町と京都ホテルオークラの遭難の碑

現在、佐久間象山が河上彦斎に襲われた三条木屋町には、「佐久間象山先生遭難之碑」と刻まれた石碑が置かれています。

ここで、河上彦斎に斬りつけられたのでしょうね。

同じ石碑には、大村益次郎郷遭難之碑とも刻まれています。

でも、この石碑は、よく見ると下の方に「北へ約壱丁」と書かれていますので、100メートルほど北に行ったところに本当の石碑があります。

三条木屋町の遭難の碑

三条木屋町の遭難の碑

上の石碑から北に5分ほど歩いた京都ホテルオークラの辺りに「象山先生遭難之碑」があります。

三条木屋町からは、100メートル以上ありますね。

京都ホテルオークラ付近の遭難の碑

京都ホテルオークラ付近の遭難の碑

この碑は、木屋町通沿いを流れる高瀬川の上に宙に浮くような感じで設置されています。

おそらく、この辺りで象山は息絶えたのでしょう。

佐久間象山を斬った河上彦斎は、明治になっても攘夷論を唱えていました。

時代はすっかり変わり、攘夷という風潮は無くなり、以前の長州藩士や土佐藩士が皆、文明開化を口にして浮かれていた頃、彼の存在が邪魔になった明治政府により、参議の広沢真臣暗殺の容疑をかけられ斬首されました。

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