幕末の長州藩士と薩摩藩士の墓・相国寺

元治元年(1864年)7月に長州藩が、京都御所に乱入する事件が起こりました。

この事件は、京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)付近で最も激しい戦闘が行われたことから、蛤御門の変や禁門の変と呼ばれています。

最終的に戦いは、京都御所を守った会津藩と薩摩藩を主力とする幕府軍が勝利しました。

この時、戦死した長州藩士と薩摩藩士のお墓が、京都御所の北に建つ相国寺境内にあります。

長州藩士の墓

長州藩士のお墓は、相国寺境内の西の墓所内にあります。

墓所の入口には、長州藩士のお墓があることを示す以下の石柱が立っています。

禁門変長州藩殉難者墓所

禁門変長州藩殉難者墓所

そして、墓所に入ったすぐ左に長州藩士のお墓があります。

長藩士戦亡霊塔

長藩士戦亡霊塔

禁門の変で、激戦地となった蛤御門は、長州藩の主力と薩摩藩の主力がぶつかりました。

お墓の石碑に書かれた文章は、漢字だらけでよくわからないのですが、以前に紹介した書籍の京都石碑探偵(光村推古書院)によると、薩摩藩士が20余りの長州藩士の首を獲り、この地に葬り塔標を建てたようです。

その後、明治39年(1906年)に山口県人の桂半助が偶然この塔標を見つけ、幕末の長州藩主の毛利敬親の孫に当たる元昭に報告し、翌年の明治40年にお墓が建てられました。

なお、これと同じようなお墓が、相国寺の北東に建つ上善寺にもあるそうです。

薩摩藩士の墓

相国寺の東門の付近には、蛤御門の変で長州藩士と戦った薩摩藩士のお墓があります。

お墓には、「甲子役 戊申役 薩藩戦死者墓」と刻まれています。

薩藩戦死者墓

薩藩戦死者墓

甲子役というのは、蛤御門の変のことで、事件が起こった年の干支が「甲子(きのえね)」だったことから、このようにも呼ばれています。

薩摩藩邸が相国寺の近くにあったことから、ここに薩摩藩士のお墓があるというのは納得できますが、敵の長州藩士のお墓の近くにあるのは、なんとなく違和感があります。

しかし、蛤御門の変から2年後の慶応2年(1866年)に長州藩と薩摩藩が薩長同盟を結び、江戸幕府を倒したことを考えると、それほど不思議なことではないのかもしれませんね。

甲子役の他に刻まれている戊申役は、慶応4年の鳥羽伏見の戦いから翌年の函館戦争まで、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争(ぼしんせんそう)のことを意味しています。

ここに眠っているのは、鳥羽伏見の戦いの戦没者です。

ちなみに蛤御門の変で薩摩藩とともに戦った会津藩士のお墓は、左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)にあります。

なお、相国寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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