源平の史跡まとめ

京都には、源氏と平家の史跡が数多くあります。

当ブログでも過去記事でこれらの史跡を紹介してきましたが、記事を投稿した時期がバラバラのため、探し出して読むのが非常に困難な状況となっていました。

なので、過去に紹介した源平の史跡を時系列にしたがってまとめました。

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平清盛の生誕から世に出るまで

平清盛は、元永元年(1118年)に平忠盛の長男として誕生しました。

実の母は、祇園女御(ぎおんのにょうご)でしたが、父親は白河上皇だったのではないかともいわれています。

後に忠盛は、池禅尼(いけのぜんに)と再婚します。

平家の運命は、清盛の2人の母によって大きく運命が変わることになります。

久安3年(1147年)。

清盛は、この頃、朝廷を悩ませていた山門の強訴(ごうそ)の前に立ちはだかり、神輿に向かって矢を射ました。

この事件以後、清盛は有名になっていきます。

保元・平治の乱

近衛天皇の時代、鵺(ぬえ)が都を騒がしていました。

まだ、幼かった近衛天皇は、鵺を恐れ、その退治を源頼政に命じます。

幼くして即位した近衛天皇は、亡くなるのも早く、久寿2年(1155年)に若干17歳でこの世を去りました。

この後、崇徳上皇の子の重仁親王ではなく、その弟の後白河天皇が即位したことで、保元元年(1156年)に保元の乱が起こります。

この時、平清盛と源義朝は後白河天皇に味方し、義朝の弟で弓の名手だった為朝は崇徳上皇に味方しました。

保元の乱に勝利した清盛と義朝でしたが、乱後の褒賞が不公平だったことから、平治元年(1159年)に両者の間で平治の乱が起こります。

鵺退治で活躍した源頼政は、同じ源氏の義朝ではなく、平清盛に味方しました。

平治の乱に敗れた源氏の武将は、次々に捕えられ処刑されましたが、源頼朝は伊豆に島流し、常盤御前の3人の子は出家することを条件に命を助けられます。

平家全盛期

平治の乱で勝利した平清盛は、とんとん拍子で出世し、武士で初めて太政大臣となりました。

政治の中心は、朝廷から平家に移り、その栄華は、「平家でない者は人でない」と言われるほどで、全ては清盛の思いのままという時代が続きます。

平家が全盛を極めていたころ、鞍馬寺に預けられていた源義朝と常盤御前の間に生まれた牛若丸は、五条大橋で弁慶と出会い、金売り吉次に伴われ、京都を脱出し奥州平泉に向かいます。

治承元年(1177年)。

平家が実権を握る世に不満を持つ者たちが、鹿ケ谷山荘で妥当平家の密議を行いました。

しかし、この計画はあまりにも稚拙だったため、すぐに平清盛の知るところとなり、関係者は次々と処罰されました。

治承寿永の乱

鹿ケ谷の変後も世の中の平家への不満は無くなりませんでした。

遂に後白河法皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が、全国の源氏に平家追討の令旨(りょうじ)を発します。

そして、治承4年(1180年)5月に最初に挙兵したのが平治の乱で平清盛に味方した源頼政でした。

以仁王に加担した園城寺(おんじょうじ)は荘園を没収され、また、奈良の興福寺の僧たちも私有地を召し上げられます。

これに対して、興福寺の僧たちが暴動を起こしたため、清盛は子の重衡(しげひら)に南都焼き討ちを命じます。そして、この数ヶ月後に清盛は亡くなりました。

以仁王の令旨を受けた源頼朝や木曽義仲も諸国で起ちあがります。

これに対して平家も鎮圧に向かいましたが、富士川の戦いで水鳥の羽ばたく音に驚き、戦わずして頼朝軍に敗北。また、倶利伽羅峠(くりからとうげ)では、木曽義仲に壊滅的な打撃を受け、遂に平家は都落ちを決断します。

平家に代わり都に入った木曽義仲でしたが、素行が悪かったため、後白河法皇は源頼朝に義仲追討を命じます。この命を受けた頼朝は弟の範頼と義経を京都に向かわせました。

宇治川の戦いで勝利した範頼と義経は、その後、一ノ谷、屋島で平家に勝利し、遂に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。

追われる義経

平家を滅ぼし都に戻った源義経でしたが、その後、鎌倉の源頼朝と不仲となります。

頼朝は、義経の館に刺客を送りますが、事前に察知した義経は返り討ちし、都から離れることにしました。

都から義経が離れたころ、壇ノ浦の戦い後に大原で隠棲していた建礼門院を後白河法皇が訪ねました。

わずかな家来を連れた義経は、奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。

しかし、秀衡の死後、その子の泰衡の裏切りにより、遂に義経は衣川で自害しました。

この時、武蔵坊弁慶は立ち往生したと伝えられています。

その他の史跡

上記の他にも京都には、源平に関係のある史跡があります。