京都市南区の東寺の近くにひっそりと建つ城興寺(じょうこうじ)。
東寺に訪れる途中にたまたま立ち寄ったのですが、歴史的に興味深いお寺だということがわかりました。
平家に奪われた以仁王のお寺
城興寺の最寄駅は、地下鉄九条駅または近鉄東寺駅です。
入口の山門は控えめです。
城興寺は、永久元年(1113年)に藤原信長の邸宅を藤原忠実が寺に改めたのが始まりと伝えられています。
現在の境内は、それほど広くありませんが、当初は相当な規模だったようで、烏丸町全域が寺域だったそうです。
城興寺も、京都の歴史ある他のお寺と同じように応仁の乱(1467年)で衰退したとのこと。
現存する本堂には、本尊の千手観音像が祀られています。
城興寺が歴史的に興味深いと感じたのは、由緒書に「平氏討伐の挙兵の一因」と書かれていたことです。
城興寺は、後に後白河法皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が領することになりましたが、治承3年(1179年)に平家に奪われてしまいます。
このことが、源頼政とともに以仁王が平家追討のために挙兵した一因と考えられています。
もちろん領地を没収されたことは「平氏討伐の挙兵の一因」に過ぎないと考えられていますが、案外、こういう私的な恨みの方が平家を倒そうという強い気持ちにつながったのかもしれません。
源頼政が以仁王とともに挙兵したのも、彼の子の仲綱が平宗盛に貸した馬に息子と同じ「なかつな」という名を付けられ侮辱されたからとも伝えられていますしね。
薬院社と次郎吉稲荷
境内には、本堂の他に薬院社と次郎吉稲荷という社が建っています。
近くの説明書には、以下のような旨が書かれていました。
平安時代、城興寺の近くに施薬院御倉(みくら)がありました。
施薬院は、奈良時代に聖武天皇と光明皇后が創始した医療と施薬の役所です。
平安時代初期には、藤原冬嗣が城興寺の近くに私財を投じて施薬院を建てました。
施薬院は、鎌倉時代に他所に移り、御倉跡の「薬院の森」には、施薬院稲荷の祠が残り、地元の人々の鎮守として崇敬されます。
その後、明治時代の廃仏毀釈により施薬院稲荷は廃止されますが、地元の人々の熱意により城興寺の陀枳尼天堂(だきにてんどう)に合祀されました。
これが現在の薬院社です。
陀枳尼天は女稲荷と崇められていることから、城興寺の境内に移ってきた施薬院稲荷は婿入りした形となります。
そのことから薬院社は「夫婦円満のお稲荷さん」と信仰されているそうです。
もちろん薬院社は、病気平癒のご利益も授けてくれます。
もうひとつの社の次郎吉稲荷は、薬院社の摂社になります。
説明書には、「あなたの唯一の『願』だけ叶える」と書かれていました。
なので、どうしても叶えたいことだけを祈願しなければいけないようですね。
ご夫婦で祈願するとより効果があるのではないでしょうか。
たまたま訪れた城興寺で、平家追討の一因を知ることができるとは思いませんでした。
こういうことがわかるのも京都散策の魅力の一つですね。
なお、城興寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。