島原に残る東鴻臚館址

平安時代、京都には外国からの賓客をもてなす鴻臚館(こうろかん)と呼ばれる施設がありました。

平安京の中心を南北に朱雀大路が設けられ、その南には羅城門が建ち、左右に東寺西寺が建立されました。

そして、羅城門から北に進み、七条に朱雀大路を挟んで東鴻臚館と西鴻臚館が造営されました。

角屋の北側にある東鴻臚館址の石碑

西本願寺から西に5分ほど歩くと、江戸時代に花街があった島原に到着します。

そして、島原の西端に当時の揚屋であった角屋もてなしの文化美術館があります。

この角屋の北側に東鴻臚館の跡地を示す石碑が立っています。

JR丹波口駅からだと、南に徒歩約5分の場所です。

東鴻臚館址の石碑

東鴻臚館址の石碑

平安時代に日本と交流のあった国と言えば、唐が思い浮かびますが、東鴻臚館を利用したのは唐の使節ではなく渤海国(ごっかいこく)の使節でした。

渤海国は、中国大陸の東北部と朝鮮半島の北部で栄えた国です。

東鴻臚館址の説明書によると、当時の日本の政府は、渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽(りんゆうがく)を演奏したり、詩文の会などを催していたそうです。

林邑楽は、インド系の舞楽で日本には奈良時代に伝わっています。

東鴻臚館は、延喜20年(920年)頃には、廃止されていたようです。

この頃には、渤海国が衰退していたので、東鴻臚館も役目を終えたようです。

東鴻臚館は、現在の石碑の位置よりも当初は南にあり、現在地付近に移ってきたのは弘仁年間(810-824年)のことです。

東西市の設置が理由です。

西鴻臚館の跡地を示す石碑は、東鴻臚館址から南西に10分ほど歩いた辺りにあります。

東鴻臚館と西鴻臚館の間には、中央卸売市場がありますが、昔もこの辺りは市場として栄えていました。

羅城門や西寺はなくなったものの、東寺は現在も変わらず同じ場所にあり、その北方には中央卸売市場があります。

そして、東鴻臚館が建っていた地には、江戸時代に角屋が営業を始め現在も建物が残っています。

平安時代の市や迎賓館はなくなりましたが、ほぼ同じ場所で商取引が行われ、おもてなしのための施設が建設されたのは、単なる偶然なのでしょうか。

東鴻臚館址の説明書には、「そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる」と書かれています。

そして、与謝蕪村の以下の句が刻まれています。

白梅や 墨芳しき 鴻臚館

西本願寺の参拝後や角屋の拝観後にでも、時間があれば、東鴻臚館址に立ち寄ってみてください。

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