京都市左京区の平安神宮の北に積善院(しゃくぜんいん)というお寺が建っています。
あまり有名なお寺ではないので、ご存知の方が少ないのではないでしょうか。
私が参拝した時も境内には誰もいませんでした。
もしかしたら参拝者がいなかったのは、境内に祀られている人食い地蔵が原因なのかもしれません。
崇徳上皇の怨念
積善院の最寄り駅は、京阪電車の神宮丸太町駅で、そこから春日北通を東に10分ほど歩くと到着します。
積善院は、聖護院の塔頭(たっちゅう)で、鎌倉時代初期に創建されました。
その後、明治時代に準提堂と合併し、大正時代に現在地に定まりました。
本堂の北西に進むと、小さな祠が3つ並んでいます。
その真ん中にあるのが、人食い地蔵と呼ばれている崇徳院地蔵(すとくいんじぞう)です。
平安時代後期。
後白河天皇と崇徳上皇が争う保元の乱が起こりました。
この戦いは、最終的に後白河天皇が勝利し、崇徳上皇は都から遠く離れた讃岐に島流しとなりました。
崇徳上皇は、その後、都に帰ることが許されず、讃岐で亡くなります。
上皇が亡くなる前後、京都では、大火災が発生したり、保元の乱で後白河天皇に味方した平清盛が謎の高熱で病死したりと、不幸なことが続きました。
これはきっと崇徳上皇の怨霊の仕業に違いない。
そう思った都人たちは、上皇の祟りを鎮めるために地蔵尊を祀りました。
それが、崇徳院地蔵です。
ところで、崇徳院地蔵は、なぜ、人食い地蔵と呼ばれるようになったのでしょうか。
突然ですが、「すとくいんじぞう」と早口で10回言ってみてください。
すとくいんじぞう、すとくいんじぞう、すとくいんじぞう・・・。
どうですか。
「すとくいんじぞう」が「ひとくいじぞう」に聞こえないですか。
これが、崇徳院地蔵が人食い地蔵と呼ばれる理由ですが、そう呼ばれるようになったのは、それだけ、崇徳上皇の祟りが都人たちに恐れられていたということですね。
なお、保元の乱と崇徳上皇の祟りについては、以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
苔のじゅうたんと猫の置物
崇徳院地蔵にお参りした後、境内を少しばかり散策することに。
本堂の近くには、みずみずしい苔が地面にびっしりと生えた一画がありました。
そこには、大きめの寝ている猫の置物と小さな猫の置物があります。
小さな置物のひとつは、なぜか狸ですね。
人食い地蔵にお参りした後だったので、猫の置物を見たら、ほっとしました。
なお、積善院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。