京都市伏見区に建つ藤森神社(ふじのもりじんじゃ)には、蒙古塚があります。
蒙古はモンゴルのことで、日本史では、鎌倉時代に蒙古が襲来した元寇が有名です。
藤森神社にある蒙古塚は、その元寇と関係があるような、ないような、ちょっと不思議な存在です。
祭神の舎人親王と早良親王
藤森神社には、京阪電車の墨染駅から北東に約5分歩くと到着します。
JRの藤森駅からだと西に徒歩約5分です。
藤森神社の創建は、今から1800年前と伝えられており、本殿には12柱の祭神が祀られています。

本殿
日本書紀の編者である舎人親王(とねりしんのう)も当社の祭神です。
舎人親王は、祟道盡敬皇帝(すどうじんけいこうてい)と追贈され、本殿の前の石碑にも「追贈 祟道盡敬天皇」と記されています。

舎人親王御神前の石碑
藤原種継暗殺事件に関わったとされた早良親王(さわらしんのう)もまた当社の祭神です。
この早良親王が、蒙古塚と関係があります。
早良親王は、天応元年(781年)に蒙古追討にあたって、藤森神社に戦勝祈願をしたと伝えられています。
以前に紹介した書籍『京都 知られざる歴史探検』の下巻によれば、江戸時代の『都名所図会』に記された藤森神社の縁起では、早良親王は英邁であったため、兄の桓武天皇を退けて皇太子になったとされています。
そして、蒙古が攻めてきたときに光仁天皇が早良親王を大将軍に任命して征伐にあたらせたところ、神風が吹いて蒙古軍を退けることができたということです。
しかし、早良親王は早世したので、兄の桓武天皇が代わって即位することになったのだと。
こちらは、藤森神社の蒙古塚です。

蒙古塚
本殿から参道を南に進んでいくと、右手に立っています。
藤森神社の説明書によると、昔は、7つの塚があり七ツ塚とも呼ばれていたそうで、蒙古の将兵と戦利の兵器を納めたところだそうです。
このような立派な石碑が置かれていると、奈良時代にも、蒙古軍が襲来したのかと思ってしまいますが、そのような事実は確認されていません。
また、早良親王は、兄の桓武天皇の皇太子であったことから、桓武天皇より先に立太子したことも考えられません。
早良親王は、後に非業の死を遂げ、都に天変地異をもたらしました。
その怨霊を鎮めるため、桓武天皇は、早良親王に祟道天皇を追号しています。
舎人親王に追贈された祟道盡敬皇帝にも同じ「祟道」の文字が入っていますが、早良親王と舎人親王との間に何か深い関係があるのでしょうか。
藤森神社にどちらも祭神として祀られていることも意味ありげですね。
なお、藤森神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。