京都の歴史一覧

平家の親子が建てた建物・白河南殿跡と得長寿院跡

京都市左京区を流れる岡崎疎水に熊野橋という橋が架かっています。 場所は、平安神宮から冷泉通を西に300メートルほど歩いた辺りです。 この熊野橋の西と東には、平安時代の建築物の跡を示す石碑があります。 西にあるのは、白河南殿跡の石碑で、東にあるのは得長寿院跡の石碑です。 偶然なのか必然なのか、白河南殿にあった建物は父が、得長寿院は子が建てたものです。

平安神宮に残る日本初の路面電車

日本で最初に鉄道が開通したのは、明治5年(1872年)のことで、新橋駅と横浜駅の間に線路が敷かれました。 では、電気鉄道が最初に走ったのはどこだったのでしょうか。 これについては、明治23年に上野で開催された第3回内国勧業博覧会で、東京電灯会社が上野公園内を走らせたのが最初とされています。しかし、この時は、電車を模擬運転しただけでした。 実際に営業運転が行われたのは、その5年後の明治28年2月1日で、京都電気鉄道が京都市下京区の七条停車場から伏見の油掛までの約6.7kmを走行しました。

北朝の光厳法皇が隠棲した常照皇寺

京都市右京区の旧京北町(けいほくちょう)に常照皇寺というお寺があります。 常照皇寺は、貞治元年(1362年)に北朝の初代天皇であった光厳法皇(こうごんほうおう)が創建しました。 常照皇寺は、訪れたことがある方ならご存知と思いますが、京都市中心部からかなり遠い場所に建っています。 なぜ、光厳法皇は、都から遠い場所に常照皇寺を創建したのでしょうか。

鳥羽伏見の戦いの史跡

慶応4年(1868年)1月3日。 京都市伏見区で、新政府軍と旧幕府軍が激突しました。 この戦いは、鳥羽伏見の戦いと呼ばれ、明治2年(1869年)の函館戦争まで続く戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりとなります。 現在でも、伏見区には、鳥羽伏見の戦いの史跡がいくつも残っています。

幕末の長州藩士と薩摩藩士の墓・相国寺

元治元年(1864年)7月に長州藩が、京都御所に乱入する事件が起こりました。 この事件は、京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)付近で最も激しい戦闘が行われたことから、蛤御門の変や禁門の変と呼ばれています。 最終的に戦いは、京都御所を守った会津藩と薩摩藩を主力とする幕府軍が勝利しました。 この時、戦死した長州藩士と薩摩藩士のお墓が、京都御所の北に建つ相国寺境内にあります。

大規模な新撰組の内部紛争・油小路の変の跡地

慶応3年(1867年)3月に新撰組から脱退した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は、孝明天皇孝明天皇のお墓を警護することを目的とした御陵衛士(ごりょうえじ)を結成します。 新撰組は、隊士の脱退を認めておらず、違反した場合は死罪という厳しい掟がありました。 そこで、局長の近藤勇(こんどういさみ)は、伊東の暗殺を計画します。 かねてより伊東から300両のお金を工面して欲しいと頼まれていた近藤は、お金を用意できたと彼に伝え、同年11月18日に七条醒ヶ井(しちじょうさめがい)の妾宅で酒宴を開きます。 不用心にも一人で訪れた伊東は、泥酔して歩いて帰宅する途中に新選組隊士の大石鍬次郎...

源平の史跡まとめ

京都には、源氏と平家の史跡が数多くあります。 当ブログでも過去記事でこれらの史跡を紹介してきましたが、記事を投稿した時期がバラバラのため、探し出して読むのが非常に困難な状況となっていました。 なので、過去に紹介した源平の史跡を時系列にしたがってまとめました。 なお、当記事内のリンクは、便宜上クリックすると新しくウィンドウが起動するようにしています。タブで開く場合は、Ctrlキーを押した状態で左クリックしてください。

滝口入道と横笛ゆかりの滝口寺

京都市右京区の嵯峨野に滝口寺というお寺が建っています。 もともとは往生院三宝院という名だったのですが、明治維新で廃寺となった後、昭和に入って再興されて現在の寺名となりました。 滝口寺という名は、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の小説「滝口入道」が由来となっています。

村山たか所縁の金福寺と圓光寺

京都市左京区の一乗寺に金福寺(こんぷくじ)と圓光寺というお寺が建っています。 この2つのお寺は、幕末、井伊直弼の愛人であった村山たかと深い関係があります。 村山たかをご存じない方が多いと思いますが、大河ドラマの第1作目の「花の生涯」のヒロインとして描かれた女性です。