大規模な新撰組の内部紛争・油小路の変の跡地

慶応3年(1867年)3月に新撰組から脱退した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は、孝明天皇孝明天皇のお墓を警護することを目的とした御陵衛士(ごりょうえじ)を結成します。

新撰組は、隊士の脱退を認めておらず、違反した場合は死罪という厳しい掟がありました。

そこで、局長の近藤勇(こんどういさみ)は、伊東の暗殺を計画します。

かねてより伊東から300両のお金を工面して欲しいと頼まれていた近藤は、お金を用意できたと彼に伝え、同年11月18日に七条醒ヶ井(しちじょうさめがい)の妾宅で酒宴を開きます。

不用心にも一人で訪れた伊東は、泥酔して歩いて帰宅する途中に新選組隊士の大石鍬次郎(おおいしくわじろう)に槍で突かれ亡くなりました。

路上に遺体を放置

伊東甲子太郎の遺体は、西本願寺近くの油小路七条に放置されます。

実はこの遺体の放置は、新撰組が他の御陵衛士たちをおびき寄せるために仕組んだ罠だったのです。

伊東の死は、町役人によってすぐに東山区の高台寺月真院にいる御陵衛士たちに報告されました。

御陵衛士たちは、新撰組の罠であることはわかっていましたが、最終的に遺体を引き取りに行くことを決定します。

遺体を引き取りに行ったのは、伊東の弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進(しのはらたいのしん)、服部武雄、毛内有之助(もうないゆうのすけ)、加納道之助、富山弥兵衛、藤堂平助の7名です。

一方の新撰組は、御陵衛士が伊東の遺体を必ず引き取りに来ると考え、油小路七条のいたるところに40名ほどの隊士を潜ませて待ち伏せしていました。

狭い路地での激闘

下の写真は、現在の油小路七条です。

油小路七条

油小路七条

1本西の堀川通は、とても大きな道路ですが、油小路通は車がギリギリすれ違うことができるほどの幅しかない狭い通りです。

この狭い通りで、新撰組と御陵衛士の激闘が繰り広げられました。

遺体を引き取りに来た御陵衛士たちを数十名の新選組隊士が取り囲みます。

新撰組時代、隊の中で沖田総司と並ぶ剣の使い手といわれた御陵衛士の服部武雄は、民家の門柱を背にし、馬乗り提灯を腰に差して、迫りくる新選組隊士たちを次から次に斬り捨てていきます。

その鮮やかな太刀さばきに幹部の原田左之助も手傷を負わされました。

しかし、多勢に無勢では、剣の達人の服部でも勝ち目はありません。

最期は、全身20ヶ所以上の傷を負い、原田の槍に突かれ倒れました。

服部武雄の死に顔は、平然としたものだったと伝えられています。

同じく服部とともに闘っていた毛内有之助は刀が折れ、新選組隊士たちに無数に斬り刻まれ息絶えました。

伊東甲子太郎外数名殉難之跡

新撰組結成時からの隊士で、伊東とともに脱退した藤堂平助は、新選組幹部の永倉新八と闘っていました。

永倉は、藤堂と仲が良かったことから、何とかして彼をこの場から逃がしてやろうと考えていました。

そして、斬り合う中で、永倉は藤堂に目配せして逃げるように促します。

それに気づいた藤堂は、隙を見て逃げ出しましたが、その場に居合わせた元部下の三浦常次郎に斬り付けられてしまい、その他の新選組隊士たちに次々に斬られ亡くなりました。

残りの御陵衛士たちは、新撰組に囲まれる前に修羅場を脱し、薩摩藩邸に逃げ込みました。

この時、逃れた篠原たちは、後に伏見で近藤勇を暗殺しようとしましたが、失敗しています。

現在、油小路七条のお寺の門のそばに「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」の石碑が立っています。

伊東甲子太郎外数名殉難之跡

伊東甲子太郎外数名殉難之跡

何気なく歩いていると見逃してしまいそうな場所にありますので、見に行くときは注意してください。

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