京都の歴史一覧

織田信長と信忠の碑がある大雲院

織田信長は、比叡山を焼き討ちしたり本願寺と長年にわたって争ったりと、宗教弾圧を行った事で有名です。 神をも恐れない人物、古い体制を壊して新時代を創造する人物、織田信長にはそういった印象がありますね。 でも、信長が全面的に宗教を否定していたのかというと、そんなこともなかったようです。

常盤御前が雪をしのいだ松の残株がある寶樹寺

平治元年(1159年)12月に起こった平治の乱は、平清盛が源義朝に勝利したことで終わりました。 しかし、負けた側の源義朝の家族にとっては、ここからが本当の戦い。 平清盛に捕えられると、当然ながら命の保証はないわけですから、とにかくどこかに逃げなければなりません。 義朝の妻であった常盤御前も、今若、乙若、牛若の3人の子供を連れて都から逃げることになりました。

幕末・明治維新の史跡まとめ

これまで、このブログでは、京都にある幕末、明治維新の史跡を多く紹介してきました。 数年前に書いたものは、ブログの奥底へと沈んでしまい、探すのが一苦労といった状態。 なので、幕末・明治維新の史跡を紹介した記事だけをまとめておきました。今後、追加する幕末や明治維新に関連した記事もこのページからリンクを貼る予定です。

京都での安政の大獄の拠点・間部詮勝寓居跡

安政5年(1858年)に起こった弾圧事件、世に言う安政の大獄では、将来を嘱望された人材が幕府に捕えられ、次々と処刑されました。 安政の大獄というと、彦根藩出身の幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)が行った弾圧として知られていますが、その時の老中であった間部詮勝(まなべあきかつ)も重要な役割を果たしていました。

大村益次郎の墓碑・京都霊山護国神社

京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たち1,356名が祀られています。 その多くが、明治維新を見る前に亡くなった志士たちなのですが、中には、明治維新を迎えた後に亡くなった志士の墓碑もあります。 長州藩士の大村益次郎もそのうちのひとりです。

鳥取藩殉難者を祀る鳥取藩招魂社・京都霊山護国神社

京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たちの墓碑が多数あります。 その多くは、長州藩士や土佐藩士のものですが、それ以外の藩士の墓碑や招魂社もあります。 幕末史にあまり登場しませんが、鳥取藩では、明治維新に貢献した志士87人が、霊山の山頂に建つ鳥取藩招魂社に祀られています。

天誅組の墓碑・京都霊山護国神社

文久3年(1863年)8月に起こった天誅組の変は、後に倒幕の導火線となった事件として評価されるようになりました。 天誅組を率いたのは、土佐藩出身の吉村寅太郎で、京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、彼と天誅組の墓碑があります。

禁門の変殉難者の墓碑・京都霊山護国神社

前回の記事では、京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の池田屋事件殉難者の墓碑を紹介しました。 池田屋事件は、元治元年(1864年)6月に起こり、長州系の浪士たちが新撰組に斬られたり捕縛されたりしました。 それに怒りを覚えた長州藩が、翌月に大挙して京都に攻め上り、幕府軍と戦ったのが禁門の変です。京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)が激戦地であったことから蛤御門の変とも呼ばれています。 その時の殉難者の墓碑も京都霊山護国神社にあります。