建武の新政の中心地は高級住宅街だった

元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅びた後、5月23日には新田義貞により鎌倉幕府も攻め滅ぼされました。

新田義貞の挙兵は5月8日と伝えられているので、わずか2週間ほどの間に鎌倉幕府を倒したことになります。

もちろん、これは新田義貞の功績ではありますが、事前に足利高氏がその子の千寿王をわずか4歳で新田勢に加勢させ、それにより諸国から数多くの武士が討幕のために加わってきたことも瞬く間に幕府を倒せた理由でもあります。

ここに約150年続いた鎌倉幕府は終焉を迎えました。

公卿を優遇、武士を冷遇した恩賞

鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇を中心とした政治体制が確立されていきます。この政治体制は、元弘の後、建武と元号が変わったことから、建武の新政と呼ばれています。

8月には、重要な政務を行う記録所を復活し、新たに事務や裁判を行う雑訴決断所を設けました。

また、討幕に功績があった者たちには恩賞を与える必要があることから、その審議のために恩賞方も設置されましたが、これが、ほとんど公卿出身者で占められており、武士から恩賞方に就いたのは、楠木正成、名和長年、結城親光の3名だけでした。

当然、恩賞方がこのような人選だったため、恩賞は公卿に手厚く、武士を冷遇する結果となります。

討幕に大きな功績を上げたのは、足利家と新田家でした。

しかし、両家は同じ源氏であるものの以前から犬猿の仲。その両家を協力させて討幕に向かわせたのが、岩松経家とその弟の吉致(よしむね)でした。

そのため、岩松兄弟には、飛騨国の守護と十所の地頭職が授けられました。

また、足利高氏には武蔵、常陸、下総が与えられ、後醍醐天皇の諱(いみな)の尊治(たかはる)から一字を賜り、尊氏と名を改めることを許されます。弟の直義にも遠江と三河の一部が与えられました。

新田義貞も越後守となり上野と播磨を与えられ、弟の脇屋義助も駿河守となります。

その他にも楠木正成には摂津と河内、名和長年には因幡と伯耆が与えられています。

このあたりまでは、武士もそれなりの恩賞を与えられていたのですが、誰が見ても六波羅探題を滅ぼした功労者は、この者だろうという赤松円心が冷遇されました。

赤松円心に与えられたのは、佐用ノ庄のただ一所のみ。もともと領していた播磨が新田義貞に与えられてしまったので、彼は、討幕によって逆に損したことになります。

それどころか、赤松円心に助けられた千種忠顕(ちぐさただあき)の方が、3か国を与えられているのですから、やりきれないものがあります。

この恩賞の配分にばかばかしくなった赤松円心は、早々に都を立ち去り国元へと帰っていきました。

烏丸御池周辺にあった足利、新田、楠木の屋敷

建武の新政の時に後醍醐天皇が政務をとった場所は、二条富小路の里内裏です。

現在の京都市役所が建つ辺りですね。

二条里内裏には、楠木正成の屋敷もありました。

そこから、西の地下鉄烏丸御池駅方面に向かうと、足利尊氏の邸宅があった二条高倉、新田義貞の邸宅があった二条烏丸となります。

現在の烏丸御池駅には、烏丸御池遺跡・平安京跡の石碑が置かれています。

烏丸御池遺跡・平安京跡

烏丸御池遺跡・平安京跡

石碑にも、この周辺に足利一門の邸宅が存在したことが書かれています。

この辺りは昔から高級住宅地として栄えており、安土桃山時代には織田信長も宿館を持っていたということです。

鎌倉幕府を倒して間もない時期にこのような高級住宅街に住み始めたことも、後に建武の新政がすぐに崩壊した一因なのかもしれませんね。

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