2013年12月一覧

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2013年の人気記事トップ10

2013年もいよいよ今日で終わりですね。 今年1年間、当ブログにお越しいただきありがとうございました。 今回の記事は、毎年恒例の当ブログの人気記事トップ10を紹介します。 2013年に書いた記事は、この記事も含めて274記事です。 いったいどんな記事が人気があったのでしょうか。

新田義貞の足利尊氏追撃を遅らせた勾当内侍の供養塔がある滝口寺

建武3年(1336年)1月。 京都に攻め込んできた足利尊氏軍を後醍醐天皇方が追い返すことに成功します。 これにより、一時的に東坂本に避難していた後醍醐天皇は、再び京都の花山院に戻ることができました。 京都を追い出された足利尊氏は、西へ撤退。 後醍醐天皇に仕える楠木正成は、すかさず追い討ちをかけようとしましたが、天皇方は、勝ちに浮かれて足利軍を追撃しようとしませんでした。

大友貞載と刺し違えた南朝の忠臣結城親光

建武2年(1334年)7月に足利直義によって後醍醐天皇の皇子の護良親王(もりながしんのう)が暗殺されました。 暗殺した時、誰もいないと思われていた室内ですが、実は、この暗殺の現場を見ていた女性がいたのです。 それは、護良親王に仕えていた南の方です。南の方は、それを知らせるために都に戻りました。 南の方の話を聞いた後醍醐天皇は、足利尊氏と直義の討伐を考えます。 2人は、鎌倉にいたので、その討伐のために誰かを派遣しなければなりません。 その候補となったのが、新田義貞です。

西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺計画・北山手入れ

建武2年(1335年)1月。 建武の新政に不満を抱く武士たちが、諸国で反乱を起こし始めます。 その中には北条家の残党も含まれていました。 これらの反乱は、5月には鎮圧されましたが、なおも新政に不満を抱く者たちが多く、その中には、大納言の西園寺公宗(さいおんじきんむね)もいました。

京都御苑の周囲にある3つの名水

京都市内には、名水と呼ばれる湧水がいろいろなところにあります。 多くの場合、神社やお寺の境内から湧き出しており、場所によっては名水を汲むことができます。 ただ、観光のついでに名水を汲むと、持って帰るのが大変だったりします。 特に交通の便が悪いところだと、長時間重たい水を持って歩かないといけないこともあります。 だから、名水を汲むならバスや電車の駅が近くにあるところがおすすめです。 その条件を満たしているのが、京都御苑の周囲にある菅原院天満宮神社、梨木神社(なしのきじんじゃ)、下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)の3ヶ所です。

大納言佐局と再会した地にある平重衡の墓

ある日、京都市伏見区の日野の辺りを歩いていると、道路わきに古びた石柱が立っているのを見つけました。 その石柱には、「従三位平重衡卿墓」と刻まれていました。 こんな道の脇にお墓があるとは驚きです。 しかも、平家の公達のお墓が、こんなに無造作にあるなんて。

会津藩と新撰組がたてこもった伏見奉行所

近鉄電車の桃山御陵前駅から南に5分ほど歩いた辺りに桃陵団地(とうりょうだんち)があります。 この桃陵団地は、江戸時代に伏見奉行所があった場所です。 慶応4年(1868年)1月。 伏見奉行所にたてこもった会津藩と新撰組は、その北にある御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)に陣取っていた薩摩藩と激しい戦闘を繰り広げました。

建武の新政に嫌気がさした万里小路藤房が出家した相国寺

元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡した後、元弘の変で常陸に島流しとされた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、6月に京都に戻ってきました。 これから後醍醐天皇を中心とした政治が行われることに期待を持ちながら京都に戻ってきた藤房でしたが、すぐに護良親王(もりながしんのう)と足利高氏が、いがみ合っていることを知ります。 これは何とかしなければならないと考えた藤房は、すぐに足利高氏の屋敷へと向かいました。

紅葉まとめ2013年

12月も後半に入り、京都は、どこも紅葉が終わっています。 下鴨神社は、まだ残っているかもしれませんが、それ以外の紅葉の名所は、カエデの木に枝だけが残っている状態ですね。 私は、今年も、多くの紅葉の名所に訪れました。 2013年の紅葉は、色付きが比較的きれいだったのではないでしょうか。 今回の記事では、恒例の今年訪れた紅葉の名所のまとめです。

後醍醐天皇の石清水行幸

建武元年(1334年)6月に護良親王(もりながしんのう)が足利尊氏邸を襲撃する計画は未然に収まったものの、後醍醐天皇を中心とした建武の新政は、公卿と武士との間にある溝は深く、双方が協力しあうような関係にはありませんでした。 特に武士の不満が強く、鎌倉幕府を倒す前よりも、暮らしが悪くなっている状況。 反対に公卿の暮らしはぜいたくとなっており、このような状況では、武士の不満は増すばかりと考えた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、改革に乗り出します。