京都の歴史一覧

池田屋事件殉難者の墓碑・京都霊山護国神社

元治元年(1864年)6月に起こった池田屋事件では、長州藩士を中心に多くの志士が新撰組と会津藩によって斬られたり、捕縛されたりしました。 池田屋事件は、明治維新を1年遅らせることになったといわれているように幕末史における重大事件のひとつに数えられます。 その時の殉難者たちのお墓が、京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)にあります。

石清水行幸で一橋慶喜が孝明天皇から節刀を受けなかったのはなぜ?

文久3年3月11日の孝明天皇の賀茂行幸で、外国人を日本から追い出すための攘夷祈願(じょういきがん)が行われた後、今度は、八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)への行幸が行われることになりました。 石清水行幸では、幕府に外国人を追い払う攘夷実行を誓約させることが目的で、画策したのは賀茂行幸と同じく長州藩とそれに加担する公卿たちでした。

孝明天皇の賀茂行幸。その時沿道から・・・

文久2年(1862年)2月。 孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)が14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁ぎました。 これは、幕府が国難を乗り切るために朝廷と力を合わせる公武合体を実現するために求めたもので、朝廷は、幕府の政治体制の改革、将軍家茂の上洛、外国人を日本から追い出す攘夷(じょうい)の決行期日と具体策の策定を条件に和宮を嫁がせることを承諾しました。 幕府は、この条件を飲んだため、翌文久3年に将軍家茂が上洛することとなります。

細川忠興とガラシャが眠る高桐院

京都市北区の大徳寺に高桐院という塔頭(たっちゅう)が建っています。 創建は、慶長6年(1601年)で、建立したのは、細川忠興(ほそかわただおき)です。 境内には、忠興とその妻のガラシャの墓があります。

魚三楼に残る鳥羽伏見の戦いの弾痕

慶応4年(1868年)1月に始まった鳥羽伏見の戦いは、その名のとおり、京都市の鳥羽と伏見で新政府軍と旧幕府軍が戦いました。 現在の京阪電車伏見桃山駅と近鉄電車桃山御陵前駅の近くでは、北に新政府軍の薩摩藩、南に旧幕府軍の会津藩と新撰組が陣取り、激しくぶつかり合いました。 その時の弾痕が、今も京料理屋の魚三楼(うおさぶろう)に残っています。

日本初の駅伝のスタート地点は三条大橋

毎年、正月になると箱根駅伝が行われます。 箱根駅伝は、すっかり定着して冬の風物詩となっていますね。 ところで、駅伝が日本で生まれたというのはご存知でしょうか。 最初に駅伝が行われたのは、大正6年(1917年)のことです。 ゴールは東京の上野不忍池の博覧会正面玄関。 そして、スタートは、京都の三条大橋でした。

楠木正成が陣を敷いた一乗寺下り松

元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇を中心とする建武の新政が行われました。 しかし、建武の新政は、倒幕に功績のあった武士に大した恩賞が与えられなかったり、土地所有者が誰かを後醍醐天皇が決めたことで所領問題が発生したり、新貨幣の流通がうまくいかなかったりと、多くの混乱を招き、人々の不満が蓄積していました。 そんな状況の中、建武2年(1335年)に北条家の残党が東国で反乱を起こします。

蹴上と義経大日如来の関係

京都市山科区と左京区の堺に蹴上(けあげ)という地名があります。 蹴上の名は、平安時代末期に牛若丸こと源義経が、この地で起こした事件が由来となっており、今もそれを伝えるお地蔵さんがインクラインの広場に残っています。 ところで、義経はどんな事件を起こしたのでしょうか。

和宮生誕の地・橋本家跡

文久2年(1862年)2月。 14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と皇女和宮(かずのみや)の婚礼が行われました。 両者はともに16歳。 皇女が武家に嫁ぐというのは、過去に例がなかったのですが、時世が両者を結び付けることとなったのです。