後醍醐天皇が幽閉された花山院
延元元年(1336年)6月30日に新田義貞率いる後醍醐天皇方の軍勢が、足利尊氏が布陣する東寺に総攻撃をしました。 しかし、この総攻撃は失敗に終わり、後醍醐天皇方は名和長年が戦死するなど、大きな打撃を受けます。 敗報は、翌日に東坂本の仮皇居にいる後醍醐天皇にもたらされ、公卿たちは大いに落胆しました。
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延元元年(1336年)6月30日に新田義貞率いる後醍醐天皇方の軍勢が、足利尊氏が布陣する東寺に総攻撃をしました。 しかし、この総攻撃は失敗に終わり、後醍醐天皇方は名和長年が戦死するなど、大きな打撃を受けます。 敗報は、翌日に東坂本の仮皇居にいる後醍醐天皇にもたらされ、公卿たちは大いに落胆しました。
京都市南区に建つ東寺で有名な建物といえば五重塔ですよね。 その次に有名な建物が何かと聞かれるといろいろ迷いますが、南大門は割と知られている建造物ではないでしょうか。 南大門は境内の南にある門ですが、東にも東大門(ひがしだいもん)という門があります。 私は、東大門が開いているのを見たことがありません。 おそらく、不開門(あけずのもん)と呼ばれているのがその理由なのでしょう。
延元元年(1336年)5月25日に湊川の戦いで楠木正成が戦死しました。 翌26日には、湊川から退却した新田義貞が、京都に戻ってきました。 湊川での敗戦により、足利尊氏の軍勢が京都に攻め上ってくるのは時間の問題。 そのため、27日に後醍醐天皇は京都をいったん離れ、比叡山の東坂本へと移りました。 生前に楠木正成が提案した、足利軍を京都におびき寄せて街道を封鎖し物流を断つ作戦を実行することにしたのです。
建武3年(1336年)2月。 後醍醐天皇の軍に敗れた足利尊氏は九州へと落ちのびました。 これで、再び京都に平和が戻ってき、2月29日には延元と元号も改元されました。 しかし、この平和もほんの一時の間だけで、1ヶ月もすると足利方に味方する仁木頼章(にっきよりあき)が丹波で旗揚げ、播磨では倒幕のために後醍醐天皇に味方した赤松円心も白旗城を築城し朝廷に弓を引く構えを見せていました。 その他、中国地方でも多くの武士たちが、後醍醐天皇に反旗を翻しました。
建武3年(1336年)2月。 後醍醐天皇の軍勢によって京都を追い出された足利尊氏は、兵庫から船に乗り命からがら九州へと落ちのびました。 尊氏は、後醍醐天皇に反抗した朝敵。 このままでは、逆賊の汚名を着たまま九州へと向かうことになり、兵を募って再起するのは難しい状況です。 そこで、尊氏は、ある妙案を思いつきます。
建武3年(1336年)1月。 京都に攻め込んできた足利尊氏軍を後醍醐天皇方が追い返すことに成功します。 これにより、一時的に東坂本に避難していた後醍醐天皇は、再び京都の花山院に戻ることができました。 京都を追い出された足利尊氏は、西へ撤退。 後醍醐天皇に仕える楠木正成は、すかさず追い討ちをかけようとしましたが、天皇方は、勝ちに浮かれて足利軍を追撃しようとしませんでした。
建武2年(1335年)1月。 建武の新政に不満を抱く武士たちが、諸国で反乱を起こし始めます。 その中には北条家の残党も含まれていました。 これらの反乱は、5月には鎮圧されましたが、なおも新政に不満を抱く者たちが多く、その中には、大納言の西園寺公宗(さいおんじきんむね)もいました。
ある日、京都市伏見区の日野の辺りを歩いていると、道路わきに古びた石柱が立っているのを見つけました。 その石柱には、「従三位平重衡卿墓」と刻まれていました。 こんな道の脇にお墓があるとは驚きです。 しかも、平家の公達のお墓が、こんなに無造作にあるなんて。
近鉄電車の桃山御陵前駅から南に5分ほど歩いた辺りに桃陵団地(とうりょうだんち)があります。 この桃陵団地は、江戸時代に伏見奉行所があった場所です。 慶応4年(1868年)1月。 伏見奉行所にたてこもった会津藩と新撰組は、その北にある御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)に陣取っていた薩摩藩と激しい戦闘を繰り広げました。
元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡した後、元弘の変で常陸に島流しとされた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、6月に京都に戻ってきました。 これから後醍醐天皇を中心とした政治が行われることに期待を持ちながら京都に戻ってきた藤房でしたが、すぐに護良親王(もりながしんのう)と足利高氏が、いがみ合っていることを知ります。 これは何とかしなければならないと考えた藤房は、すぐに足利高氏の屋敷へと向かいました。