後醍醐天皇が隠岐遠島の途中で休息した鳥羽離宮

元弘元年(1331年)9月に鎌倉幕府打倒のために笠置山にたてこもった後醍醐天皇でしたが、9月末に落城して捕えられた後、10月に六波羅に移されて監禁されました。

そして、三種の神器も後醍醐天皇から対立する持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)へと授けられ、天皇は、鎌倉幕府の処分の決定を待つ身となります。

また、後醍醐天皇の笠置籠城と時を同じくして、河内の赤坂城で幕府軍と戦っていた楠木正成も持ちこたえることができずに落城し、戦死したという噂が広まります。

これにより後醍醐天皇の討幕計画は、正中の変に続き、再び失敗となりました。

春が来るとともに隠岐へ

年が明けて元弘2年になり、後醍醐天皇の処分が隠岐への島流しと決定しました。

後醍醐天皇とともに隠岐に流されるのは、一条行房、千種忠顕(ちぐさただあき)、阿野廉子(あのやすこ)、小宰相局(こさいしょうのつぼね)、大納言局(だいなごんのつぼね)でした。

六波羅を出発したのは3月7日。

後醍醐天皇たちを隠岐へ護送するのは、佐々木道誉、千葉ノ介貞胤(ちばのすけさだたね)、小山秀朝です。

護送の列が、七条通を西へと進み、大宮通までくると南に折れて、東寺の前を通りかかると、そこにはたくさんの人だかりができていました。

何しろ、天皇が島流しとなるのですから、こんなに珍しいことはなく、民衆が一目その光景を見ようと殺到したのです。

そのような状況の中、護送の列は鳥羽離宮に到着。

ここでひとまず休憩となり、後醍醐天皇たちは、食事をしました。

食事が終わり、護送の列は再び隠岐へと向かって進み始めます。

鳥羽離宮までは、天皇の姿が見えないような輿を使っていたのですが、ここからは、天皇の姿を隠すような囲みがない輿に代えられ、行く先々で人目にさらされたと伝えられています。

そして、4月になり後醍醐天皇は、絶海の孤島である隠岐の島に到着し、ここで監視のもと、日々を過ごしていくことになりました。

後醍醐天皇とともに討幕のために起ち上がった者たちも次々に処分されていきました。

遅れて笠置に合流した後、楠木正成とともに赤坂城にたてこもった尊良親王(たかながしんのう)は土佐へ配流。

その弟の宗良親王(むねながしんのう)は讃岐へ。

北畠具行(きたばたけともゆき)と烏丸成輔は死罪となります。

また、花山院師賢(かざんいんもろかた)は下総(しもうさ)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)は常陸、その弟の季房(すえふさ)は下野(しもつけ)へと流されることになりました。

4月28日には、鎌倉幕府が量仁親王を即位させ光厳天皇(こうごんてんのう)が誕生し、元号も正慶に改まりました。

この光厳天皇が北朝の初代天皇です。

しかし、後醍醐天皇方では、改元された後も、元弘の年号を使用し続けたため、以後、2つの元号が併存する時代が60年ほど続くことになりました。

現在の鳥羽離宮跡

後醍醐天皇が隠岐に流される途中で休憩した鳥羽離宮は、現在、鳥羽離宮跡公園となっています。

鳥羽離宮跡公園

鳥羽離宮跡公園

鳥羽離宮は、平安時代後期に白河天皇が造営した離宮で、上皇となった後、院政を行った地として知られています。

当時の鳥羽はとても栄えており、まるで都が平安京から遷ったような賑わいだったそうです。

鳥羽離宮跡公園から東に向かうと安楽壽院というお寺があります。

このお寺の境内には、白河法皇と鳥羽法皇が院政を行った場所であることを示す石碑が置かれています。

安楽壽院の院政の跡を示す石碑

安楽壽院の院政の跡を示す石碑

権勢を振っていた頃の白河法皇は、まさか自分の子孫が武士の手によって島流しとなるとは夢にも思っていなかったでしょう。

なお、安楽壽院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

関連記事


7月の京都。 それは祇園祭の季節です。 祇園祭は、7月17日と24日の山鉾巡行が有名で、この2日だけが祇園祭と思われがちですが、実は7月1日から31日まで1ヶ月間行われています。 なので、7月に京都を訪れると、何かしらの祇園祭の行事を観覧できます。 しかし、祇園祭の日程や見どころを何も知らずに7月に京都を訪れても、なかなか祇園祭を楽しむことはできません。 そこで、今回の記事では、祇園祭の日程と見どころを紹介します。