京都の歴史一覧

新田義貞の足利尊氏追撃を遅らせた勾当内侍の供養塔がある滝口寺

建武3年(1336年)1月。 京都に攻め込んできた足利尊氏軍を後醍醐天皇方が追い返すことに成功します。 これにより、一時的に東坂本に避難していた後醍醐天皇は、再び京都の花山院に戻ることができました。 京都を追い出された足利尊氏は、西へ撤退。 後醍醐天皇に仕える楠木正成は、すかさず追い討ちをかけようとしましたが、天皇方は、勝ちに浮かれて足利軍を追撃しようとしませんでした。

西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺計画・北山手入れ

建武2年(1335年)1月。 建武の新政に不満を抱く武士たちが、諸国で反乱を起こし始めます。 その中には北条家の残党も含まれていました。 これらの反乱は、5月には鎮圧されましたが、なおも新政に不満を抱く者たちが多く、その中には、大納言の西園寺公宗(さいおんじきんむね)もいました。

大納言佐局と再会した地にある平重衡の墓

ある日、京都市伏見区の日野の辺りを歩いていると、道路わきに古びた石柱が立っているのを見つけました。 その石柱には、「従三位平重衡卿墓」と刻まれていました。 こんな道の脇にお墓があるとは驚きです。 しかも、平家の公達のお墓が、こんなに無造作にあるなんて。

会津藩と新撰組がたてこもった伏見奉行所

近鉄電車の桃山御陵前駅から南に5分ほど歩いた辺りに桃陵団地(とうりょうだんち)があります。 この桃陵団地は、江戸時代に伏見奉行所があった場所です。 慶応4年(1868年)1月。 伏見奉行所にたてこもった会津藩と新撰組は、その北にある御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)に陣取っていた薩摩藩と激しい戦闘を繰り広げました。

建武の新政に嫌気がさした万里小路藤房が出家した相国寺

元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡した後、元弘の変で常陸に島流しとされた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、6月に京都に戻ってきました。 これから後醍醐天皇を中心とした政治が行われることに期待を持ちながら京都に戻ってきた藤房でしたが、すぐに護良親王(もりながしんのう)と足利高氏が、いがみ合っていることを知ります。 これは何とかしなければならないと考えた藤房は、すぐに足利高氏の屋敷へと向かいました。

後醍醐天皇の石清水行幸

建武元年(1334年)6月に護良親王(もりながしんのう)が足利尊氏邸を襲撃する計画は未然に収まったものの、後醍醐天皇を中心とした建武の新政は、公卿と武士との間にある溝は深く、双方が協力しあうような関係にはありませんでした。 特に武士の不満が強く、鎌倉幕府を倒す前よりも、暮らしが悪くなっている状況。 反対に公卿の暮らしはぜいたくとなっており、このような状況では、武士の不満は増すばかりと考えた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、改革に乗り出します。

護良親王の足利尊氏邸襲撃

元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇を中心とした政治体制が速やかに確立されていくかに見えました。 しかし、公卿に手厚く、武士を冷遇する恩賞に諸国の武士たちは天皇親政に少しずつ不満を募らせていきます。 そんな中、6月13日に護良親王(もりながしんのう)が征夷大将軍に任命されます。 討幕に加わった足利尊氏にとっては、自分が征夷大将軍になるつもりだったので、護良親王が征夷大将軍になったことには、不満が残るものとなりました。

新風館が建つ場所は平治の乱の悲劇の舞台だった・三条東殿跡

京都市中京区の三条烏丸に新風館というショッピングモールがあります。 新風館はなかなかおしゃれな空間で、若い人たちに人気があり、ラジオの公開放送なんかも行われたりします。 この新風館の建つ辺りは、平安時代には、三条東殿という白河法皇の院の御所があった場所です。

建武の新政の中心地は高級住宅街だった

元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅びた後、5月23日には新田義貞により鎌倉幕府も攻め滅ぼされました。 新田義貞の挙兵は5月8日と伝えられているので、わずか2週間ほどの間に鎌倉幕府を倒したことになります。 もちろん、これは新田義貞の功績ではありますが、事前に足利高氏がその子の千寿王をわずか4歳で新田勢に加勢させ、それにより諸国から数多くの武士が討幕のために加わってきたことも瞬く間に幕府を倒せた理由でもあります。 ここに約150年続いた鎌倉幕府は終焉を迎えました。

足利兄弟と護良親王との対立を深めた強盗事件

元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡した後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさたたあき)、赤松円心が京都に留まります。 まだ、後醍醐天皇の還幸前だったので、戦後の混乱から京都の治安が悪化することを防ぐためでした。 そして、足利高氏は、六波羅に奉行所を置き、弟の直義に強盗などの街の治安を乱す者たちの取り締まりを命じ、捕えたものには厳罰を与えるように指示しました。