後醍醐天皇の南都潜行

元弘の変(1331年5月)で、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に漏れたことで、関係者の日野俊基や文観(もんかん)などの僧侶が、次々に捕えられました。

討幕計画が幕府の知るところとなったのは、天皇の側近の吉田定房の密告によるもの。

吉田定房としては、討幕計画の首謀者が日野俊基であると幕府に知らせ、後醍醐天皇の地位の保全をはかったわけですが、8月になって幕府は後醍醐天皇の遠島、護良親王(もりながしんのう)の死罪、後醍醐天皇側の大覚寺統と帝位を争っている持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を御位につけることを決定します。

この幕府の行動を素早く察知した後醍醐天皇は、8月24日の夜に二条富小路の里内裏(さとだいり)を抜け出すことにしました。

比叡山の護良親王

後醍醐天皇の皇子である護良親王は、比叡山に入り天台座主(てんだいざす)となっていましたが、元徳元年(1329年)に退き、そのまま比叡山に座主として残っていました。

代わりにその翌年に護良親王の弟の宗良親王(むねながしんのう)が天台座主となります。

後醍醐天皇が2人の親王を比叡山に送り込んだのは、将来、討幕のために比叡山を味方につけておきたいという狙いがあったからです。

その後醍醐天皇の狙い通り、護良親王は僧兵を味方につけていつでも動ける状態としていました。

そして、ついに後醍醐天皇は、里内裏を抜け出して比叡山へと向かうことを決意したのです。

比叡山と南都へ

8月24日の夜に里内裏を出る女房車。

その中には、三種の神器を密かに持ち出した後醍醐天皇が隠れています。

当然、警備にあたっていた者たちは、女房車が、こんな夜更けに出かけていくのを不審に思い、声をかけます。

すると、「中宮の実家で急病人が出たので、そのお見舞いに行く」という返事。

これを聞いた警備の者たちは、怪しむことなく女房車を見送りました。

女房車は、この後、二手に分かれ一方は比叡山へ、もう一方は奈良の南都へと向かいました。

比叡山に向かったのは、花山院師賢(かざんいんもろかた)とそれに従う四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明などの公卿たち。

南都に向かったのは、後醍醐天皇とそれに従う万里小路藤房(までのこうじふじふさ)と季房(すえふさ)の兄弟、北畠具行、千種忠顕(ちぐさただあき)などでした。

二手に分かれたのは、比叡山に入る方を後醍醐天皇と見せかけ、幕府軍が比叡山を攻めている間に本物の後醍醐天皇が南都に向かうためです。

吉川英治の私本太平記の中では、後醍醐天皇を乗せた女房車が一條戻り橋に差し掛かった時、東の粟田や蹴上を六波羅探題の軍勢がすでに固めていたことから、急遽、比叡山に替え玉を送り込み、天皇自身が南都に向かうという奇策を思い付いたことになっています。

一條戻り橋

一條戻り橋

これに対して、山岡荘八の新太平記では、万里小路藤房の当初からの計画で、三条河原に差し掛かったところで、列を二手に分け、花山院師賢が扮装する偽後醍醐天皇の御車を比叡山へ、本物の後醍醐天皇が乗る女房車は南都七大寺詣でと装って南に向かったとしています。

三条大橋

三条大橋

元弘元年8月24日が、後醍醐天皇が自ら討幕のために動き出した日となりました。

すでに諸国の武門には、討幕のために起ち上がるようにという密書が北畠具行によって発せられていましたが、この時には、どの程度集まるのかは、まだわからない状況でした。

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