足利兄弟と護良親王との対立を深めた強盗事件

元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡した後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさたたあき)、赤松円心が京都に留まります。

まだ、後醍醐天皇の還幸前だったので、戦後の混乱から京都の治安が悪化することを防ぐためでした。

そして、足利高氏は、六波羅に奉行所を置き、弟の直義に強盗などの街の治安を乱す者たちの取り締まりを命じ、捕えたものには厳罰を与えるように指示しました。

4人組の強盗

ある日の夜。

京都御所の北側の今出川御門の外にある篝屋(かがりや)にひとりの女性が訴えに来ました。

篝屋とは今の交番のようなものです。

女性の話によると、彼女は酢屋の妻女で、複数の強盗が土蔵の中の財宝を持ち出しているとのこと。

この訴えを聞いた篝屋の者たち10人ほどが現場へ急行。

彼等は強盗たちから酢屋を守り、首謀者とみられる4人を捕えました。

捕えられた4人は、殿法院良忠(とののほういんりょうちゅう)の部下ということがわかります。

良忠は、護良親王(もりながしんのう)の配下の者です。

良忠は、足利高氏の許へ訪れ、4人を返してほしいと訴えます。

高氏も、今は護良親王との間でもめ事が起こるのは、都合が悪いと思い、直義に4人を釈放するように命じます。

しかし、直義は高氏の指示を無視して、4人を六条河原で処刑しました。

六条河原付近

六条河原付近

これには、信貴山(しぎさん)にいた護良親王も怒りました。

もともと護良親王は、足利高氏が北条氏に変わって武士の世の再興を考えているに違いないと疑っており、近いうちに後醍醐天皇に征夷大将軍に任命するようにと要求するはずと警戒していました。

討幕は、延喜天暦の頃の天皇親政を目的に行われたものなので、護良親王にとっては、足利高氏の存在は脅威でしかありません。

そのため、信貴山で兵を募り、足利高氏に対抗する準備を整えていました。

吉野で挙兵後高野山へ

護良親王は、比叡山で六波羅探題の軍勢と戦った後、討幕の協力者を募るため、奈良とその周辺をさまよい、元弘2年11月に吉野で挙兵しました。

しかし、幕府軍の攻撃を防ぐことができず観念した護良親王は、味方の兵たちと最期の酒を酌み交わし自害して果てようとします。

そこへ、配下の村上義光(むらかみよしてる)が現れ、自分が護良親王に変装して敵を引き付けている間に城を出て逃げるように訴えました。

これを承諾した護良親王は、わずかな供の者たちと吉野から落ちのびます。

村上義光が、自分が護良親王だと名乗って自害したことから、六波羅探題も護良親王は死んだと思っていましたが、護良親王のものとして差し出された首を確かめたところ、偽物だということが判明。

六波羅探題は、直ちに護良親王捕縛を二階堂道蘊(にかいどうどううん)に命じます。

護良親王は、その後、高野山へと逃げ、そこに匿われていました。

どうやら高野山に逃げたらしいという噂は、二階堂道蘊の耳にも届きます。

道蘊は、直ちに高野山に向かいます。

そして、高野山をくまなく探したのですが、どこにも護良親王の姿はなく、あきらめて引き返しました。

その後、護良親王は、金剛山の千早城にたてこもる楠木正成と合流。

六波羅探題が滅亡し、後醍醐天皇が京都に還幸した後も、信貴山に居続けました。

今回の強盗事件は、護良親王の足利兄弟に対する疑念をさらに深めることとなり、両者の対立関係をさらに強めることになりました。

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