平家の親子が建てた建物・白河南殿跡と得長寿院跡

京都市左京区を流れる岡崎疎水に熊野橋という橋が架かっています。

場所は、平安神宮から冷泉通を西に300メートルほど歩いた辺りです。

この熊野橋の西と東には、平安時代の建築物の跡を示す石碑があります。

西にあるのは、白河南殿跡の石碑で、東にあるのは得長寿院跡の石碑です。

偶然なのか必然なのか、白河南殿にあった建物は父が、得長寿院は子が建てたものです。

平正盛が建てた白河南殿の阿弥陀堂

下の写真に写っているのは、白河南殿跡を示す石碑です。

白河南殿跡

白河南殿跡

石碑の近くに説明書があったので、その内容を以下に要約します。

白河南殿は、嘉保2年(1095年)に覚円の僧坊を白河上皇の院御所に改めたものです。

敷地内には蓮華蔵院という御堂が建立されました。その前身となる建物が阿弥陀堂で、これを建てたのは、平正盛でした。また、阿弥陀堂内に安置された九体丈六阿弥陀は、平顕盛(たいらのあきもり)が寄進しました。

平忠盛が建てた得長寿院

下の写真に写っているのは、熊野橋を東に進み、東大路通を横切った辺りにある得長寿院跡を示す石碑です。

得長寿院跡

得長寿院跡

得長寿院は、平正盛の子の忠盛が鳥羽上皇に寄進した建物です。

得長寿院は、柱間が33間あったことから三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)と呼ばれ、建物内には1,001体の観音像が安置されていました。

忠盛は、この得長寿院を寄進したことで、内裏(だいり)への昇殿を許されることになります。

ちなみに忠盛の子は平清盛で、彼もまた私財を投じて、後白河法皇に蓮華王院を寄進しています。こちらも柱間が33間あったことから三十三間堂と呼ばれています。なお、現存する三十三間堂は、清盛が建てたものです。

得長寿院と蓮華王院については、以下の過去記事でも紹介していますので、ご覧になってください。

平家の栄華は、保元の乱平治の乱での勝利によってもたらされたことは言うまでもありませんが、父の正盛が白河上皇に、子の忠盛が鳥羽上皇に、そして、孫の清盛が後白河法皇にそれぞれ御堂を寄進してきたことも重要な要素になっていたのではないでしょうか。

平家の栄華を築いた平清盛が建てた蓮華王院だけが現存しており、正盛と忠盛が上皇へ寄進した御堂の跡地が、このような小さな石碑だけとなっているのは、何だか寂しい感じがしますね。

特に白河南殿跡の石碑は、草が伸びると半分くらい隠れてしまいそうで、その存在に気付きにくい場所に置かれています。