正面町の前には豊臣秀吉の史跡

京都市東山区に正面町という地名があります。

京都にはユニークな地名がいくつもありますが、正面町もなかなかのものです。

もちろんあるものの正面に位置しているから正面町と言われているわけです。

で、正面町の前にあるものは一体何なんでしょうか。

町名は豊臣秀吉と関係がある

これについては、以前に紹介した「京都の地理・地名・地図」という書籍に答えが載っています。

正面町には正面通という道路があり、それをまっすぐ東に進むと豊国神社(とよくにじんじゃ)があります。

豊国神社

豊国神社

豊国神社は、豊臣秀吉を祭神とする神社です。

その隣には、方広寺とういお寺が建っています。

方広寺の釣鐘

方広寺の釣鐘

方広寺は、秀吉が大仏を納めるために建てたお寺で、東大寺の大仏よりも大きかったと伝えられています。

大仏は昭和まで存在していたのですが、火災によって焼失しています。

秀吉は自分が造った大仏への参詣道を整備しました。

それが、正面通だったのです。

つまり、正面町の正面とは大仏の正面ということだったんですね。

ちなみに方広寺の釣鐘は、豊臣家が滅亡した大坂の陣の原因となったものです。詳しくは以下の過去記事をご覧になってください。

近くにある秀吉ゆかりの史跡

正面町の近くには、豊国神社や方広寺だけでなく、豊臣秀吉ゆかり史跡がいくつか残っています。

豊国神社の南東に建つ智積院(ちしゃくいん)もそのひとつです。

智積院

智積院

智積院が建つ地は、もともと祥雲寺というお寺が建っていました。

秀吉には、鶴松という長男がいました。もちろん豊臣家の後継者となる予定だったのですが、不幸にもわずか3歳で病死してしまいました。

秀吉は、鶴丸の死をとても嘆き、わが子の菩提を弔うためにお寺を建てます。

それが、祥雲寺だったのです。

その後、秀吉と対立して滅ぼされた紀州根来山の智積院の僧の玄宥(げんゆう)が、徳川家康から祥雲寺を与えられ、その地に智積院を再興しました。

智積院の北の通りを東に向かって坂道を進んでいくと、豊国廟(ほうこくびょう)があります。

豊国廟

豊国廟

豊国廟は、秀吉の廟所で、東山三十六峰のひとつ阿弥陀ヶ峰の山頂にあります。

長い石段を上っていくのが、とにかくしんどく、途中で引き返したくなるのが豊国廟です。こんなところに廟所を造るとは、なんて秀吉はわがままだったんだと思いましたね。

豊国廟は、正面通の東、豊国神社を突き抜けたほぼ一直線上にあります。

でも、正面通からは豊国廟に行くことはできないので、迂回する必要があります。

正面町に訪れる機会があれば、周辺の豊臣秀吉ゆかりの史跡も見に行ってみてはいかがでしょうか。