平安時代末期に広まった浄土庭園は宇治の平等院が典型

平安時代末期。

この頃、浄土思想が広まり、その特徴を持つ浄土庭園も造営されるようになっていきました。

現存する代表的な浄土庭園は、京都の場合、宇治市の平等院で見ることができます。

平等院の浄土庭園

浄土庭園は、極楽浄土の世界を再現したもので、お寺の仏殿を荘厳(しょうごん)するため、その前に園池を設けています。

平等院の鳳凰堂の前にも、阿字池が配されており、浄土庭園の特徴がよく見られます。

横から見た鳳凰堂と阿字池

横から見た鳳凰堂と阿字池

平安時代の中頃、疫病の流行や天変地異の発生で、京都に住む貴族たちは不安を抱えていました。

このような時代に貴族だけでなく庶民もが、仏教の力に救いを求め、阿弥陀さまが極楽に導いてくれ往生できるとする浄土思想が広まります。

当時の貴族の代表であった藤原道長もまた、阿弥陀さまに救いを求めた一人。

晩年は病を患った道長は、極楽往生を夢想して法成就(ほうじょうじ)を建立し、その無量寿院に9体の阿弥陀さまを安置しました。

道長は、臨終に際して、その9体の阿弥陀さまの手から垂らした9本の赤い糸の端を握って息絶えたと伝えられています。

その道長の子の頼通が創建したのが平等院です。

そして、父が憧れた極楽浄土の世界をこの世に現出させたのが鳳凰堂。

仏教の力が弱まる末法の時代の始まりが永承7年(1052年)と信じられており、その翌年の天喜元年に鳳凰堂は完成しました。

まるで、末法時代に間に合うように建立したかのよう。

外は朱色に塗られ中は極彩色の絵や文様で装飾された鳳凰堂には、仏師定朝(じょうちょう)が造った丈六の阿弥陀如来坐像を安置。

鳳凰堂と呼ばれていますが、極楽浄土に導く阿弥陀さまを祀ることから阿弥陀堂が正式な名称です。

斜めに見た鳳凰堂

斜めに見た鳳凰堂

東向きに建つ鳳凰堂が西日を受けると、阿弥陀さまに後光が射しているかのように見せるのが、この場所に鳳凰堂を建てた狙いなのでしょうか。

鳥羽離宮跡公園の秋の山と法金剛院

平等院の後も、木津川市の浄瑠璃寺に浄土庭園が設けられ、白河上皇の院御所として造営された鳥羽離宮にも浄土庭園は造られました。

鳥羽離宮の遺構は、ほとんど失われましたが、城南宮の西にある鳥羽離宮公園内には、当時の南殿の築山「秋の山」が残っています。

鳥羽離宮跡公園の秋の山

鳥羽離宮跡公園の秋の山

また、鳥羽天皇の中宮待賢門院(たいけんもんいん)が、大治5年(1130年)に復興した右京区の法金剛院にも浄土庭園が造られています。

法金剛院

法金剛院

かつては今よりも広大な敷地を有しており、池の西側には平等院と同じように丈六阿弥陀如来を祀る西御堂(にしみどう)が建っていました。

庭園の片隅には、往時の面影を偲ぶ青女(せいじょ)の滝が残っていますが、これだけを見ても池がどれだけ広かったのかを想像するのは難しいですね。

青女の滝

青女の滝

龍安寺の鏡容池も浄土庭園の趣を残す

法金剛院から北に約2kmの地点に建つ龍安寺は石庭が有名ですが、境内の南側に配された鏡容池(きょうようち)が浄土庭園の趣を残しています。

龍安寺の鏡容池

龍安寺の鏡容池

鏡容池は、円融天皇が天元6年(983年)に造営した円融寺の園池を引き継いで、平安時代末期に藤原実能(ふじわらのさねよし/徳大寺実能)が作庭したと伝えられています。

平安時代初期の離宮や院御所に見られた園池にはやや劣るものの、平等院の阿字池より規模が大きめ。

周囲は木々が植わり、お寺の建物が見えにくく、森林の中に残る池のように見えます。

龍安寺は、細川勝元が徳大寺家が有していた山荘を譲り受け、宝徳2年(1450年)に創建した寺院。

平安時代の貴族の邸宅は、寝殿造で建てられ、寝殿の南面には池泉庭園を配すことが多く、その庭園は寝殿造庭園と呼ばれています。

藤原実能が造営した庭園も寝殿造庭園だったのかもしれませんが、寝殿造庭園が現存していない以上、どのような景観だったのかはわかりません。

ただ、寝殿造庭園の技法は、浄土庭園にも受け継がれていると考えられているので、鏡容池も、池畔に仏殿は見られないものの、浄土庭園の趣とともに寝殿造庭園の面影を残しているのではと想像します。

平等院や龍安寺の鏡容池は、他の池泉式庭園と雰囲気が異なるように感じていましたが、それは、外界と隔絶し浄土の世界を表現しようとしたからなのかもしれません。

宿泊