7月上旬に新島旧邸の通常公開を見てきました。
建物の外観を見た後は、母屋の内部を見て廻ります。
ただ、通常公開時は建物内に入れないので、外から中を窺うようにして1階部分しか見られません。
台所と応接間
母屋の北西角の部屋は台所。
洋風といった感じはなく、北側の壁沿いにかまどが2つ並び、奥に流し、さらに奥に井戸が配置されているため和風の趣を感じます。

台所
拝観案内を読むと、当時の民家は土間が一般的と記されていたことから、母屋の台所も当時の一般的な造りにしたようですね。
どことなく禅寺の台所に似ている。
ただ、南側の壁にテーブルが置かれていることから、完全な和風ではなく、明治の人々が室内に少しずつ洋物のアイテムを取り入れていったことが伺えます。
台所の南隣にあるのは、母屋の1階で最も広い18畳の応接間。

応接間
これだけ広いとテーブルセットが置かれていても、まったく狭く感じない。

応接間のテーブルセット
テーブルセットやソファの配置は、新島襄と妻八重の在世中とほぼ同じだとのこと。
応接室は、教室や職員室、大学設立募金のための事務室、教会の集会所など、多目的に使われ多くの人が集まった場所でもあります。
また、応接間の東南隅に鉄板を使った暖炉があり、ダクトを通じて1階と2階の部屋を暖める工夫がなされています。
明治の豪邸ともなると、暖房設備がしっかりしている。
応接間の片隅には、漢詩が記された細長い板も置かれていました。

漢詩
何を書いているのか読めませんが、「忠臣楠子」という言葉が見られるので、楠木正成かその子の正行(まさつら)について書かれたものかもしれません。
茶室と居間
応接間の南隣にある四畳半の和室は茶室「寂中庵」です。

茶室
母屋は、和に洋を取り入れた建築物なので和室があっても違和感がありません。
茶室には衝立くらいしか見られず、落ち着いた佇まい。
新島襄の永眠後、八重は裏千家に入門し、茶道にいそしむ。
その際、茶道教授の許状を受け、ここ寂中庵で稽古や茶会を開いたそうです。
もともと洋間だったこの部屋は、大正初期に八重が茶室にしたもの。
茶室にかかる「寂中庵」の扁額の文字は、裏千家第十三代家元・円能斎鉄中によるものです。

寂中庵
茶室の東隣にある南北に細長い部屋は居間。

居間
左側に茶室の壁が見えますが、もとは茶室がない一つの居間だったのか。
後から、茶室を居間にはめ込んだように見えます。
居間の北には応接間があり、両室を仕切る壁の天井付近には、セントラルヒーティングの灰色のダクトも設置されています。
居間は南向きということもあり、冬は暖かそう。
書斎と食堂
居間の東隣には、書斎が設けられています。
この書斎が母屋の南東角にあたります。

書斎
室内には、天板が広めの書類棚、重たそうな机とイスのセットが、中央付近に置かれ、校長室や社長室のような威厳を感じさせる。
これらは、新島襄が使用していたもので、そのまま残されています。
また、壁面に置かれた書棚には、本がびっしり詰まり、その8割が洋書。

書斎の本棚
当時の同志社の学生たちは、この書斎にある本を図書館代わりに利用していたようで、本の表紙裏には、小さな貸し出し票が残っているものもあるそうです。
明治時代に学生が洋書を入手するのは困難だったでしょうから、この書斎にある書物は彼らが学問をする上で大変貴重だったはず。
書斎の北側にあるのは食堂。
西側の応接間とは襖で仕切られています。

食堂
照明やテーブルなどの調度品は洋風ですが、襖があるためか和室に近い雰囲気。
北側の壁沿いに置かれたタンスのような箱は、食器棚でしょうか。
新島夫妻は、この家を訪れる同志社の学生たちに西洋料理をふるまったそうです。
中には、ここで初めて西洋料理を食べた学生もいたかもしれない。
食堂と台所の間にはハッチ式の配膳棚も設けられているそうですが、外からでは見えませんでした。
他に食堂の北側に風呂とトイレもあるのですが、こちらも外からは見えず、縁側に置かれた説明書に掲載された写真を見るだけ。
以上が、新島旧邸の母屋の1階部分です。
2階にも部屋が4つあるみたいですが、当然、中に入れないのでどうなっているのかはわかりません。
2026年の新島旧邸の公開は、3月から11月までで、火曜日と木曜日が通常公開日、土曜日が特別公開日です。
特別公開日は、日曜日と祝日の一部も対象となっており、母屋の1階と付属屋の中に入れます。
訪れるなら、特別公開日が良いですね。
この後は、梨木神社に参拝します。
なお、新島旧邸の詳細については以下のページを参考にしてみてください。