曲直瀬道三の墓所がある十念寺

京都市上京区の寺町通沿いに個性的なお堂を持つ十念寺というお寺があります。

境内に入って良いものかわからないことから、近くを通っても、外からお堂を眺めることしかしたことがありません。

その十念寺の墓地には、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)のお墓があります。

日本で最初の医学校を創建

十念寺は、地下鉄の今出川駅から東に約10分歩いた場所に建っています。

十念寺が建つ寺町通沿いは、山中鹿之助のお墓がある本満寺織田信長のお墓がある阿弥陀寺など、曲直瀬道三と同時期を生きた武将とゆかりのお寺がいくつか建っていますね。

曲直瀬道三は、永正4年(1507年)に相国寺門前町の柳原で誕生しました。

相国寺は、京都御苑の北側、十念寺から西に5分ほど歩いた辺りにありますから、曲直瀬道三の生誕地はその辺りということになります。

不幸なことに曲直瀬道三は、産まれてすぐに両親を失いましたが、永正13年に相国寺で喝食(かっしき)となります。

喝食とは、 禅寺で、諸僧に食事を知らせ、食事の種類や進め方を告げる僧のことです。

その後、関東へ行き、足利学校で学問にはげみ、そこで出会った田代三喜に入門し、李朱医学を学びます。

そして、田代三喜が亡くなった後、曲直瀬道三が李朱医学を世に広めていきます。

天文15年(1546年)に京都に戻ってきた曲直瀬道三は、足利義輝を診察する機会を得て室町幕府から認められ、日本初の医学校である啓迪院(けいてきいん)を創建します。

啓迪院からは多くの医師が誕生し、曲直瀬道三の名声は高まっていきました。

毛利元就や織田信長、松永久秀といった戦国武将の診察もするようになった曲直瀬道三の噂は朝廷にも聞こえるようになり、正親町天皇(おおぎまちてんのう)にも拝謁する機会を与えられています。

その後、豊臣秀吉の診察もした曲直瀬道三は、文禄3年(1594年)にこの世を去りましたが、彼の流派は徳川家の御用達となり、江戸時代後期まで受け継がれていきました。

十念寺門前の曲直瀬道三の墓所の石碑

下の写真に写っているのは、曲直瀬道三の墓所がある十念寺の山門です。

山門

山門

山門の右前には、十念寺と刻まれた石柱が立っており、その少し前にここに曲直瀬道三の墓所があることを示す石柱も立っています。

曲直瀬道三の墓所を示す石碑

曲直瀬道三の墓所を示す石碑

十念寺の説明書によると、曲直瀬道三だけでなく、足利義教、後陽成天皇の皇子の高雲院宮(こううんいんのみや)、施薬院全宗(せやくいんぜんそう)などのお墓もあるそうです。

そして、こちらが、十念寺の風変わりなお堂です。

お堂

お堂

これが、十念寺の本堂で、平成5年(1999年)に建立されています。

堂内には、東山の旧雲居寺(うんごじ)にあった平安時代のものといわれる阿弥陀如来座像が祀られているそうです。

寺町通沿いを歩く機会があれば、ぜひ、十念寺の特徴的な本堂もご覧になってください。

なお、十念寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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